黒い羊さまからいただいたメールです。転載、了承済み
 
□締めくくりは初雪の日…[加筆訂正版]
 
2001年12月21日金曜日。「三鷹市芸術文化センター(三鷹市上連雀6-12-14)風のホール」での「田村緑の親しみやすいコンサート♯2 ヴァイオリンとピアノの夕べ」見てきました。クラッシックの公演が行われるホールはみんなあんな形式なんでしょうか。トリトンスクウェアの第一生命ホールと似通った雰囲気でした。
 
田村緑さん(ピアノ、司会進行)淡い緑か真珠色のふわっとした衣装。織り込まれた金糸がチカチカ光を反射していました。
安紀ソリエールさん(バイオリン)漆黒のベルベットのシンプルなドレス。ベルトもなにもなし。髪はブルネット。小さい宝石のついた糸(またはピン)でまとめていました。実は一番目だっていました。
中尾幸世さん(朗読)濃いブルーのベルベットの衣装。上は袖が大きなバルーン状になっていて、下は長い裾がついているはずのところが、大胆に斜めにカットされており、ひざからしたが覗いていて、片方だけ裾が垂れ下がっているというもの。
中尾さんの脚を見てしまいました。バックルのついた靴。上半身が貴婦人かお小姓風、下半身が真っ青なピーターパン?のような「リメイク・ロココ」みたいなユニークなドレスでした。モーツァルトの聖と俗を表しているのでしょうか。
 
田村さんの解説によると、全体を通じてのテーマは「巴里」ということでした…プログラム第一部。 
○モーツァルト《ピアノとヴァイオリンのためのソナタ 変ロ長調 KV378》
○武満徹『ヴァイオリンとピアノのための妖精の距離=x
○ルノー・ギャニュー《与謝蕪村の12の俳句によるピアノ曲》より5篇 ここまでで、ちょうど一時間。
…20分の休憩を挟んで、プログラム第二部。
○セザール・フランク《ヴァイオリンとピアノのためのソナタ イ長調》…ほぼ40分の長大な曲。
…アンコール。
○クライスラー《愛の哀しみ》
○唱歌「故郷(ふるさと)」
19時開演。ほぼ21時に終了でした。
 
中尾さんのパフォーマンスの詳細…上映会に比べると、伏目勝ちで、口を結んで、遥かに硬い表情でした。
▼まずは「想像を膨らませてください」という田村さんの言葉に送られての「モーツァルトの父親宛の手紙」の朗読。スポットライトを浴びて、虚空を見つめながら、眉根を大きく動かしての音読でした。彼女の朗読を見た回数は少ないですから断言できませんが、こういう表情の作り方は、今まで見た事がなかったような気がします。宣材写真にあったような、あのポーズ。ロココ調?の衣装も、この手紙を意識してのものだったのではないでしょうか。
…どんな手紙なのか、岩波文庫を要チェックですが、文面は、皇帝とサリエリをののしり「世間の若者のようには生きてゆけない…何故なら自分は宗教心に厚く病気が怖いから…」自分が童貞であることを強調しています。わざとらしい。芸術家がシリアスな人間であるという「ロマン派」以降の人間観を粉砕するはしゃきぶりです。つづいて、やがて妻となるコンスタンツェの家族についての噂を開始。姉妹の「雨夜の品定め」みたいな勝手な話し振り。娘についての「浪費家である」との噂を否定。かわいそうに。わかっていながら騙されています。こうなったらもう自分を滅ぼす共犯者ですね。
▼つぎは、瀧口修造(戦前からの日本のシュルレアリスト、実験工房≠フ精神的なパトロンでした…お金は無いけど国を越えて人脈を育てました)の詩作品『妖精の距離』の朗読。
これは、中尾さんにとって、新しい試みと言えるのかもしれません。
「うつくしい歯は樹がくれに歌った/形のいい耳は雲間にあった/玉虫色の爪は水にまじった…」
「欲望の楽器のように/ひとすじの奇妙な線で貫かれていた/それは辛うじて小鳥の表情に似ていた…」
やはりシュルレアリスムの詩には抵抗がある人もいまだにいるのかも知れません。しかし、抽象的な詩はこれからもレパートリーに加えて欲しいです。自分で黙読するだけでは、たどりつけないイメージもありますから。彼女には、詩に「時間」を取り戻すのに力を貸して欲しいのです。
ただことばの読み方については議論が出ることでしょう。わたしは「樹がくれ=こがくれ」「浮標=ぶい」のほうがいいと思います。なんとなくの語感です。確証なし。
▼蕪村の句による作品は『ゆく夏の調べ』で上演された後半の部分と同じ。…メルヴィン氏には申し訳ないですが、わたしはこっちのほうが好みに合います。
今回は、亡くなられた書家?(会場の世間話では幼稚園の設立者?)の田村さんのお祖父さん(井上五郎氏)の大きな半紙に書かれた五つの句を、一枚一枚めくり上げながらの静かな朗唱でした。紙を手繰ってからのタイミングの難しさか、大きな会場でやりずらかったのか、あるいは同じことを繰り返すのは好まない性格なのか…ちょっと活舌の調子が良くなかったです。残念ながら完璧ではなかったです。
いずれにしても、あの作品を、電子楽器ではなく、グランドピアノの響きで聞いたわけです。田村さんは「ピアノの音が完全に消えるまで耳を澄ませてほしい」と話していました。なにか用語があるみたいです。
わたしはやはり「凩や鐘に小石を吹きあてる」のピースが好きです。なんの曲から、あの激しい「コキコキーン」というようなフレーズが私の中に入ったのだか、いろんな曲を聴きなおしていけば、そのうち分かるでしょう。
 
音楽家たちのパフォーマンス。
▼田村さんの「ヴィルトゥオーゾ」ぶりについては、なにも語れません。イギリスのギルドホール音楽院首席卒業ですよ。
ピアニストとしての田村緑さんは、眉をよせ、肩をいからせ、上半身を大きく動かしての「雄渾」な、スケールの大きい演奏が持ち味の方でした。前髪があったらバサバサになってしまって大変だ。もちろん運指はおそるべきものです。それにしても、バイオリニストをたびたび見やりながらの演奏が印象的。アイコンタクトによるアンサンブルの機微のはかり方がいいです。
▼田村さんと安紀さんによる、武満作品に出てくる特殊な演奏法の実演がちょっとありました。その印象にずっと縛られていたのかも。安紀・ソリエールさんのバイオリンは、低めのカサカサするような軽い乾いた音が印象的。触っただけで音が鳴り出すという繊細な楽器であることが感じられる一連の演奏でした。でもボディの色合いは「楽器フェチ」の人たちが言うような「飴色」ではなかったですよ。薄い枯れた黄色でした。
彼女の、エジプトの壁画のように聴衆にずっと横顔だけを見せながらの演奏スタイルは独特かもしれません。なお、正面の方がずっと美しい顔立ちでした。
 
音楽家たちについて。
▼モーツァルトはさておき、武満徹。最初の対談集が1975年に出ていますが、先日こんな言葉を本の中に発見しました。「赤ん坊が生まれてオギャーと泣くところから音楽が始まっている」。
ここでも佐々木ドラマの話になってしまいますが、赤ん坊の泣き声が「ラ」音…というのは科学的事実ではないはずです。体型の違いもありますから…。調律師の世界でも、オーケストラのチューニングでも「基準音」というのは微妙に揺れ動いています。
http://www2.ocn.ne.jp/~lemonweb/story_pages/s_page3.htm 戦前の「国際標準ピッチ」の情報を発見しました。ラテン人的な決め方ですね。
この事実と、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ニコラウス・クザーヌスらの中世からの「宇宙観(マクロコスモスとミクロコスモスが相似型である)」を結びつけたところが面白いですね。武満徹については、励んで読みかつ聞かなければならないでしょう。
▼第ニ部では、中尾さんの出番はありませんでした。セザール・フランクというベルギーの作曲家の作品演奏。晩成型で60を過ぎてから傑作をものしているそうです。田村さん安紀さんは「私たち二人足してもまだ(年齢が)足りない」と言っていました。
余計なことですが、佐々木氏も「自分は年取った」なんて言っている場合じゃないのです。もっと自分のイメージに強烈な欲望を持って欲しいですね。フランクについても調べなきゃいけないでしょう。でも何となく聞いたことのある部分もありました。
 
アンコールでは、安紀さんのフランス語による題名紹介でクライスラーのポピュラーな曲でした。彼女は日本語は話せないようです。
中尾さんは最後に「ふるさと」での歌詞朗読で登場。夏の再演といってもいいでしょうが、最後まで「巴里」でまとめてもよかったかも…それとも、やはりインターネットでのポータルサイトの出現が、記念碑的なこととして心にのこっているのかも知れませんよ。
 
見間違いかも知れませんが、ロビーには、鮮やかな赤い口紅、ストライプのパンツスーツで宝塚の男役のようにばっちり決めた小林史真さんもいらしたような…。今日は演奏しないから口紅OKと推理しました。
これから先は冗談ですが、田村さんは三鷹出身…。これからみんなで田村さんの実家におしかけて「忘年会」で、冷蔵庫の中のものを全部飲み食いしちゃうとか!
今日の雪は昼前から降り始め、午後1時頃にはみぞれになり、夜には止んでいました。新世紀の最初の年、われらが音楽旅団?の締めくくりの日は、東京の今年の初雪の日でした(正確には初雪でないかも知れない)。