微音作成日誌
2001年11月1日から2001年11月30日まで
まっ、季節 投稿者:あおせ 投稿日:11月30日(金)23時51分49秒
季節は冬。こちら京都も、日中はいくらか柔らかい日差しもあるのですが、朝晩は本当に冷え込みます。さてと季節違いのお話はちょいと、横に置いておきまして。
11月分の掲示板ログをサイトにアップしました。
「RESPECT佐々木昭一郎」関係の資料をいくらかずつでもアップしていくつもりです。とりあえずは月刊ドラマのTAMA映画祭紹介記事をアップしました。
ところで、パンフレットのQ&Aとか、興味深いしテキストにして載せてみたいなと思っています。クロカワさま、かまいませんか。
私、お嫁に行かないもん。 投稿者:宮田虎彦 投稿日:11月30日(金)22時18分03秒
はどうですか。
寒そうな雨上がり、水滴の蜘蛛の巣のシーンだったかなあ。
狭い村で売春すれば、お嫁に行かれないでしょう。
私の思い違いでしょうか。
私は、多摩に行けなかったもん。
Thank you Mr.JAN. 投稿者:ギルバルス 投稿日:11月30日(金)17時33分41秒
酒場でのアルバイトシーンについては、僕も売春までは想像していなかったのですが、番組を観てくれた人(60歳、男性)の感想の中で、「昔、飲み屋では身体を売るところもあったし、酔って客に寄りかかるシーンは、そういうことだと思うよ。」という発言があったので、今ではそこまで暗示した可能性もあるかなと思っています。
また、じいちゃんが榮子を叩きながら叱るシーンは、高校生が酒場で働いたことだけに対する行動ではないとも思え、そういう思いを強くしたのです。
ただ、青森の船員酒場で、という限定したものではありません。
随所につげ義春や寺山修司の匂いがプンプンしてたまらなくなります。「百年たったら帰っておいで、百年たったらまた会える」と寺山は、言いましたが100年経っても色褪せない作品になるんだとあらためて思っています。
宇都宮さんのトイレでのシーンは、やっと分かりました。ありがとうございました。
Re:人の望みの喜び 投稿者:リトルリバー 投稿日:11月30日(金)17時25分09秒
>ozさま
ありがとうございました。確かにあの場面で「人の望みの喜びよ」が出てくる必然は
あったと思います。ただ榮子の説明でよく店員さんがわかったなあと思っただけなので。
>ハナワさま
「アンダルシアの虹」は中尾さんが一番好きな作品だそうですね。ここで当日参加
できなかった方のために、私の覚えている範囲で再現してみます。
是枝「佐々木さんと中尾さんのコラボレーション、5本の中であえて言えばどの
作品が一番好きですか(印象に残っていますか(?))」
中尾「いまから思うと、『アンダルシアの虹』が一番印象に残っています。
ジプシーの家族と本当になかよくなったことと、イタリア編の時は初めての
海外での撮影ということで緊張していましたし、スロバキア編では向こうの
スタッフがいましたから」
佐々木さんも「アンダルシアの虹」についてこう言っていました。
本当はスペインと合作でやるはずだったけれど、フランコ政権後の
ゴタゴタで合作ができなくなって、時にはカメラと録音だけという
最低限のスタッフでつくったそうです。
サインをもらうときにお二人に確認しましたが、これはグラナダの
アルハンブラ宮殿の川をはさんだ向かいの丘で撮ったということです。
はじめまして。 投稿者:ナカ 投稿日:11月30日(金)15時04分54秒
ども、はじめまして。いつもROMってはいたんですが、今日は書き込んでみます。
私も5月のアーカイブ放送を見て、この前の多摩映画祭に行った者です。
みなさんいろいろな考えや資料があってとても重宝させてもらってます。
私は「夢の島少女」だけで頭がいっぱいでした。夢の島少女がなければ映画祭にも行ってなかったし、5月のときは途中からしか見れなかったので、夢の島少女を頭に焼き付けるのに精一杯。
明日、四季・ユートピアノを見に神奈川へ行ってきます。アーカイブスでの四季・ユートピアノは放送されることを知らなくて見れなかったため、まだ1回しか四季・ユートピアノを見ていないので、すべてを理解しきれていないので。
では、お邪魔しました。
中尾さんって綺麗なかたですね。5月のアーカイブの時にゲスト出演しているのは見ましたが、実物はもっと美しく見えました。
中尾派がいるのも納得。
ギルバルスさんの疑問へ 投稿者:JAN 投稿日:11月30日(金)14時31分47秒
いろいろ、謎はつきませんね。私なりの感じ方と理解を書いてみます。
栄子の「一大決心」は酒場でのバイト。「身体を売って稼ぐ」というのは売春をイメージしたのでしょうか?そこまで暗示されているとは、小生は思いません。買春したことはないので想像できませんが、青森ではあのような船員酒場で売春が行われているのでしょうか?それとも「水商売」を広義に「身体を売って稼ぐ」といわれているのでしょうか?
2度出てくるのは、単発トピックではなく、酒場での仕事がある時期継続しているということを示していると思います。もし、1回だけなら、1回のバイトで馬を買いもどしたようになりませんか?また、ラムネのビンの破片の美しさに反応する栄子の日常が、酒場でのバイトにいささかも影響されていないという日常とバイトの対比も強調されます。
ちなみに、あの「頑張れ、頑張れ」もろに「つげ義春」ですね。つげ氏の漫画では、少女は酒場の客に乳首を刺激されながら「頑張れ、頑張れ」と、はやされていました。
トイレでの蝿を追う手(うまく捕まえられませんでしたね)は、そのしばらく後に出てくる宮さん手の不調(カレーのスプーンを落とす、ピアノ鍵盤を前に手を振る)の前哨でしょう。トイレからカレーまでは、例のしりとり的なイメージの連続で栄子の調律の日常がつづられています。この日常描写の額縁になっていると理解していました。でも宮さんが栄子さんの音の日記をトイレで勝手に読んでることは、少々違和感を覚えました。
さ、林檎でも食べよっかな。 投稿者:ギルバルス 投稿日:11月30日(金)13時22分40秒
「四季・ユートピアノ」の中で理解できない又は他との関連がうまく想像できない場面が、いま思いつくだけで2箇所あります。
一つは、馬を買い戻すため、酒場で身体を売って稼ぐシーン(暗示している部分)が、何故、2度もあるのか。
二つ目は、宇都宮先生がトイレで榮子のスケッチブックを観ながら蝿を追うシーン。
皆々様、如何お考えですか。
みんなの書き込みを読みながら映画祭に行けなかった自分にまでその場の雰囲気が伝播し、泣いてしまった一昨日、自分はこんな所に居ていいのだろうか、もっとするべきことがあるのではないのだろうか、などと軽い高揚感に包まれ、とうとう午後早退をしてしまいました。
美術館で絵画を観、新星堂へ行って「主よ人の望みの歓びよ」「第4番」「サラ・ブライトマン」を買い漁り、幾分心を落ち着けました。
昨晩は、友部正人のライブへ行き好きな「朝は詩人」を聴き、やっと今自分を取り戻した感じです。
12月21日には東京へ行ければいいなぁ。
人の望みの喜びを 投稿者:OZ 投稿日:11月30日(金)10時37分51秒
リトルリバーさま
私もこの事には疑問を持っていました。
楽譜も調べたのですが、途中のコーラスが出てくる所で低音が「ドシラソ」と1小節ごとに動く以外は明確な所はありませんでした。
しかし、ドラマの展開として「人の望みの喜び」から「I子」の望みを考え、
そして「自分の望みの喜び」として故郷の小学校へピアノを送ることを決意するキーワードになっている曲と思います。
ですから、この曲がここで出てくる必然性は有ったのだと思います。
あおせさま
曲目のリストは時間的に楽なラジオドラマあたりから、作ってみたいと思います。私には曲名の分からない物もかなりあると思いますが、少しずつ記してみたいと思います。
やっぱり行きたっかたなぁ 投稿者:nao 投稿日:11月30日(金)03時51分29秒
行けなかったチームの一人としては、この書き込みを読みながらビデオを見るのが映画祭への参加だと勝手に思い込んでいます。そういえば、「四季・・・」の中で今は無くなっちゃたもの結構ありましたね、田園調布の駅舎や大森山王のドイツ学園、それに井の頭線の電車の車体、そういえば「夢の島」もゴルフ場かぁ、現実的でごめんなさい。でも佐々木作品は不思議と新鮮なので、その時代にうっかり浸りそうになったりして。ただもう若くないのか「四季・・」も「夢の島・・」もエンディングのときはいつも涙ぐんでるなぁ。もっと前向きになって今度は朗読する中尾さんをみなさんで聴きに行きましょう。
感動再び。 投稿者:めぐ 投稿日:11月30日(金)01時58分16秒
画像を拝見しました。げんまろさま、あおせさまに感謝します!!
美しい…
当日の中尾さんの透明なまなざしや、あの素敵なお声を思い出しました。
音は火の中に 投稿者:ハナワ 投稿日:11月30日(金)01時14分34秒
>リトルリバー様
ご親切にありがとうございます。
そうだったんですか。すごい発想ですね…
今日、横浜にある放送ライブラリーというところで、「アンダルシアの虹」を観てきました。
川シリーズは始めて観たのですが、これもとても素晴らしい作品でした。
榮子の魅力やマヌエル一家?とのふれあいも凄まじく印象的でしたが、
フラメンコの動きに意味があることや、ギター職人が板を叩いて相性を選ぶ下りなど
なるほど!的な知識としてではなく、もっと本質的なものを見せられた気がして(曖昧な言い方ですが)
ハッとさせられました。本当に全てのシーンが印象に残っています。
こんなことは滅多にないことです。
私が佐々木作品に触れたのは昨年の「さすらい」が始めてで、
中尾さんを知ったのはこのあいだ放送された「四季」ですが、
私の中でお二人ともすでに重要な作家になってしまいました。
これからも私なりに追っていくことにします。
誰に言えば良いのか、何処へ言えば良いのかわかりませんが、
どうしようもなく嬉しいです。ありがとうございました。
行きたかったなあ。に一票 投稿者:buki 投稿日:11月29日(木)23時10分02秒
宮田さんの書き込みに同感。げんまろさまピューリッツァ賞決定。
でも、振り返ってみると、
(...作品は作品として、無闇に御本人を神聖視するわけではありませんが)
5月に20年ぶりの中尾さんをTVで拝見してそれだけでもあわあわしてたのに
会場でじかに御本人を目にし耳にしたら、オイラ即死だった、きっと。
ふと
真実とは太陽のようなものだ、どこにでもあまねくふりそそぐが、直視することはむずかしい
などと連想するオイラなのでした
行きたかったなあ。 投稿者:宮田虎彦 投稿日:11月29日(木)22時15分13秒
「げんまろさまからの画像」、拝見致しました。
いやあ、中尾さん、きれいだなあ。こりゃあ、ちな様、泣けてくるわあ。
何とか話題に入り込みたい宮田でした。
白テンを抱く貴婦人 投稿者:あるぷ 投稿日:11月29日(木)01時25分30秒
映画祭パンフの36ページ、佐々木さんの「四季・ユートピアノ」に関するコメント中に、企画が採用された時の抱負(?)として「『白テンを抱く貴婦人』に負けない美を今度も中尾さんから引き出す!」とあります。
何だろうと思っていたら、ダ・ヴィンチの絵だったんですね。なんと年明けに、横浜美術館に実物が来ます。JRの駅などで「チャルトリスキ・コレクション展」のチラシを探してみて下さい。とても品があり、静謐な空間や時間、かすかな音や香りまでが感じられるような絵です。
>ちなさま
一日おいて自分の書き込みを読み返すと、気負っていてこちらもお恥ずかしい…どうかお気になさいませぬよう。
画像 投稿者:あおせ 投稿日:11月29日(木)00時52分12秒
いつまでも、ふわぁっとしていたいのですが、そうもいきません。と、いうことで
げんまろさまから、画像を戴きました。トップページの更新情報にリンクを貼っております。
是非、ご覧くださいませ。
OZさま、曲名リストですか。よろしくお願いいたします、興味津々です。いえ、先日、やっとMDデッキを買いまして、教えていただいたリストを参考にサントラ盤みたいなものを作って楽しめたらなかなかに嬉しいのです。
最後の挨拶 投稿者:ちな 投稿日:11月29日(木)00時10分13秒
>あるぷさま、リトルリバーさま、Makさま
中尾さんの最後の一言は、「覚えています」でしたよね・・・
ねぼけた頭で書き込まないよう気をつけます。
まったく、感動しておいて間違えるとは、本当にお恥ずかしい・・・
誰か教えて2 投稿者:リトルリバー 投稿日:11月28日(水)22時13分06秒
>ハナワさま
「四季・ユートピアノ」のオープニングとエンディングで
榮子が口ずさむ歌の歌詞は、このサイトの「テレビドラマ」→
「四季・ユートピアノ」→「解説」をたどれば出てきます。
http://isweb21.infoseek.co.jp/cinema/aose/f/tv/shikiyu/kaisetu.htm
ちなみにこれはマーラー交響曲第4番第4楽章の替え歌です。
ozさまの書き込みを見て、長年の疑問がまた湧いてきたのですが、
カノンや弦楽セレナードは確かに下降音(ドシラソファミレド)ですよね。
でも「人の望みの喜びよ」はどうしても下降音とは思えません。
だから榮子がレコード店の店員に、
「ララララララララ(ドシラソファミレド)というのが基本で、それが
どんどんずっと続いていくような曲なんですけど」
と聞くと、「人の望み」が流れて、
「これだ!!」
と言うのがわかりません。
本当はここで別の曲を使うつもりだったんでしょうか。
でもレコードジャケットにちゃんと書いてあるし。
細かいことですみません。
感謝と音楽のことなど 投稿者:OZ 投稿日:11月28日(水)17時32分22秒
私もすばらしい上映会を企画、実現されました「クロカワ」さん他、スタッフの方々に感謝いたします。
そしてそれを知るきっかけとなった、このホームページを主宰しているあおせさんに。
20数年来ずっと私の心の中で追いつづけていた人、でも決して自分の目の前に現れることは決して無いと思っていました。
それが現実になった感動は、ここに書き記すのが難しいほど大きなものでした。
会場での中尾さん、佐々木さんへの質問には、映像と音楽との密接な関係についてのものが多かったと思いました。私も佐々木さんの作品を見て、一番最初に感じた事は、映像に対する音楽の密接な関係で、これは佐々木さんが質問に答えていらしたような、「予算の都合で著作権のないクラシック」と言ったものではなく、考え抜かれた結果だと思います。
私が一番印象に残っているのは「春・音の光」での「チャイコフスキーの弦楽セレナード」です。実は趣味でチェロを弾いているので、この曲も何度か演奏した事があるのですが、その度に奥さんの話をするオンドレイと手回しオルゴールのシーンや、ラドが鳩を放つシーンが思い浮かんできて、胸が一杯になります。「パッヘルベルのカノン」は「夢の島少女」を初めて見た(96年)ずっと前からよく演奏していましたが、見てからはもう、おいそれとは演奏できなくなりました。
「夢の島少女」と「四季・ユートピアノ」のどちらにも「『ドシラソファミレド』と繰り返される曲」という言葉が出てきました。「チャイコフスキーの弦楽セレナード」もまさに『ドシラソファミレド』が旋律になっている曲です。このあたり意図した所があったのでしょうか。
チェロといえば、「東京オンザシティー」と「八月の叫び」でチェリストが主人公として登場します。佐々木さんがチェロに対して特別な思い入れがあるのかどうか聞いてみたかったと、いまさらながら思っています。
中尾さんの出演したラジオドラマでも、クラシック音楽が効果的に使われていました。特に「赤糸で縫いとじられた物語」での近代フランス音楽(ドビュッシー/シリンクス、プーランク/クラリネット・ソナタなど)は絶妙な組み合わせでした。映像のない分イマジネーションが膨らむからでしょう。
そして「天の記憶」における「有元利夫」もバロック音楽を題材にした絵をたくさん書いています。「部屋の星座」を画集でやっと見る事が出来ました。赤系統の色が多く使われ、想像以上に明るい感じの絵でした。
今度佐々木さんのTVドラマや、中尾さんのラジオドラマでで使われたクラシック音楽のリストを作ってみたいと思います。
私に何か出来るとすれば、この程度の事ぐらいでしょうから。
お疲れ様でした 投稿者:黒猫 投稿日:11月28日(水)12時25分00秒
お久しぶりです。今風邪で体調を崩しぼ〜っとしながらパソコンの画面に向かっています。
ところで映画祭大盛況のうちに終了したようですね。
関係者の方々、参加された皆さん、そして佐々木さん、中尾さん、本当にお疲れ様でした。
私は映画祭には行かなかったのですが、ここの書き込みを読むと当日の会場の雰囲気が何となく
伝わって来るような気がします。佐々木さん、中尾さんもお元気そうでほっとしました。
それにしても皆さんの書き込みを読んで「私って絶対人生においてあれこれ損してるよな〜」と
つくづく思いましたです…。(今回も行こうと思えば行けたのにね)
それはそうとDVD化の件、実現する可能性が高くなってきた様で嬉しいです。
「四季〜」「夢の島少女」は佐々木作品という事を抜きにしてもソフトとして残すだけの価値はある
作品だと思いますので。(私としては「紅い花」「さすらい」等も是非リストに加えてほしい…)
最近しみじみ思うのですが、映像作品にしろその他の表現芸術(芸術という言い方はあまり好き
ではないのですが)にしろ、その関わり方一つとっても人により様々ですよね。
私自身は若い頃は密着志向型というか朝から晩までそれにドッポリつかっていたいタイプだった
んですが、次第に(良い意味で)作品と一定の距離を保っていたいと思う様になりました。
そういう意味では今の私は必ずしもディープな佐々木&中尾ファンとは言えないかも知れません。
ただ昔と違い今はむしろそういう関わり方の方が自分にとっては自然な事なんじゃないかと思う
様になりました。もちろんこれは作品への愛着云々とは全く別の問題です。
風邪薬が効いてきたのか少し元気が出てきました。
今日は一日おとなしくしている事にします…。皆さんも風邪には気をつけて。
伝播。 投稿者:ギルバルス 投稿日:11月28日(水)09時09分20秒
いま、職場で泣いています。なんか泪がとまりません。
演奏家の発言について 投稿者:ハナワ 投稿日:11月28日(水)08時56分38秒
強いて言えば佐々木派で、
DVD化に大・賛成派だけれども「体験」を重んじたい、
という意味においては複製される事が決定(?)して
多少の喪失感?のようなものを抱いているハナワです。
(それでも待ち遠しいですが)
>げんまろ様
>リトルリバー様
ありがとうございます。
確かにその通りの事を仰っていました。
参考にさせて頂きます。
そこでまた質問で申し訳ないのですが、
四季のオープニングとエンディングで榮子が口ずさむ唄が
凄まじく印象的なんですが、詳細をご存じの方いらっしゃいますでしょうか。
映画祭の事や、作品の本質とは全く関係のない話で恐縮ではありますが、
よろしくお願い致します。
>大仙様
当日はありがとうございました。
お陰さまで映画祭に心置きなく参加できました。
お連れの方にも宜しくお伝え下さい。
1万人のうちの1人 投稿者:リトルリバー 投稿日:11月28日(水)03時09分30秒
>まてぃあさま
ありがとうございます。私の記憶が確認できました。当日は300(?)人ぐらいだったかもしれませんが、あの会場の静かな熱気が佐々木さんにDVD化を決意させることになったと思います。
>あるぶさま
確かに「ずっと覚えています」と言ってました。一瞬、会場全体がシーンとなって緊張感に満ちた感動が広がって大きな拍手が沸きました。このときのことを私もずっと覚えています。
(無題) 投稿者:げんまろ 投稿日:11月28日(水)02時33分02秒
あるぷ様の
「私はこの作品で、私が生かされていることへの感謝を表現しようと思った」
この中尾さんの発言に、作品の魅力が集約されている様な気がしてなりません。他のドラマ
を見ても、滅多に(私にとっては「決して」)感じる事のない、どうしようもない感動、
切なさ、喜びみたいなものがいったいどこから出て来ていたのか。昔の中尾さんのインタ
ビュー記事にも「生かされている」言葉が出て来ていて、謙虚な人だなあ…と思っていた
のですが、25日のトークでも、この発言のときの中尾さんの表情が忘れられません。
いやあ、まだ酔っぱらってますね。
時間の余韻 投稿者:あるぷ 投稿日:11月28日(水)01時12分30秒
映画祭では、すばらしい時間と空間を経験させていただきました。
20年前「四季・ユートピアノ」で言葉にならない衝撃を受けて以来、佐々木さん、中尾さんの関係する作品を追いかけてきましたが、はじめて「A子」でなく中尾さんご本人に接することができたことをはじめ、いまだに夢のようでぼーっとしています。
中尾さんの最後のご挨拶ですが、私の記憶では「ほんとうにありがとうございました。今日皆さんにお会いできたことを、ずっと覚えています」でした。「忘れない」ではなく「覚えている」という、とても意志的な言葉を選んで使われたことが、深さと強さを感じさせるあのお声とあいまって強く印象に残り、いまだに私の中で響いています。
もう一つ、中尾さんの言葉ではっとさせらたのは、「四季」の後に「川シリーズ」に出演を決意されるまでのいきさつでした。実はいろいろあったけれど結局出演依頼を受諾し「私はこの作品で、私が生かされていることへの感謝を表現しようと思った」とおっしゃいました。私は聞いた瞬間絶句してしまい、今でも思い出す度にいろいろな感情や記憶がわいてきて、言葉になりません。
言葉にならない話ばかりですが、書き始めるときりがない(笑)今回はこのへんで・・・
リトルリバーさま 投稿者:まてぃあ 投稿日:11月28日(水)00時19分01秒
いえいえ、聞き間違いでは無いですよ。私もそのように聞きました。
「一億分の一でいいんだ。一万人がわかってくれれば・・・」というような発言でしたよね。
「ん?」と思いましたので(^^;...
確かに二度「一万人」とおっしゃいました。
佐々木さん、緊張というより、興奮していらしたご様子に見えました。
何度も何度も、特に質疑応答の時間に立ち上がってキチンと腰を折って「ありがとうございます」と質問した方や拍手に礼をされる姿が印象的でした。
いろいろ書きこみたいのですが、知り合いのパソコンがウィルス感染し、こんな夜中に復旧の手伝いに行ってきます。
みなさまもウィルスには十分ご注意下さいませ。
いまだに 投稿者:あおせ 投稿日:11月27日(火)23時42分32秒
いまだにふわぁっとした気分です。心のいくらかをTAMAに置き忘れてしまったのかも知れません。あと、2,3日はこんな気分を味わっていたい気がします。そんなわけで、一応は管理人の私、本来でしたら個々の書き込みに対応していかなければならないのでしょうが、もうしばらくふわぁっとさせておいてくださいませ。
大仙さま、中尾幸世さんらしいコメントだなと思いますよ。私もそういうのが、らしくて素敵な状態だなと思います。
中尾さんの今後の活動 投稿者:大仙 投稿日:11月27日(火)23時20分16秒
続けて大仙です。
今後の活動についてコメントを求めたところ「小さな朗読会などでほそぼそとやっていきたい」という
ようなことをおっしゃってましたよね。
このサイトを見てても思ってましたが、本人があまり世の中に出ることを好んでおられないような
感じがしました。
いちファンとして新しい作品に触れる機会が少ないと言うのはとても残念なことですが、ご本人が
そういう気持ちであるなら無理にはやし立てるようなことはしないほうがいいのかなと思ってしまいましたが、
みなさんはどう思われますか?
中尾派と佐々木派 投稿者:大仙 投稿日:11月27日(火)23時09分54秒
「会場には佐々木派と中尾派がいらっしゃいますよね」と言った大仙です。
「両方派」の人もいらっしゃるという配慮が欠けてましたね。すみませんでした。私も、両方派です。
とにかく「生中尾幸世」の口から出てくる声が聞けるだけでも満足の1日でした。
もちろん、テレビで1度見た映像も大スクリーンで満足でした。
岡山から朝早く飛行機に乗った甲斐がありました。
あおせさん、クロカワさん、そしてチケットを分けてくださったmicchanさん、ハナワさん、
この場を借りてお礼申し上げます。
映画を作ってる後輩に勧めておいたら、当日来てました。
彼の日記サイトのコメントがなかなか良いので以下、引用しておきます。
---
1本目は(夢の島少女)僕は今度映画撮るつもりでいるし
手持ちのカメラではここはこういうふうに動いてああいうふうにズームして
ここでシーンを割って、盗めるものなら盗もうとあれこれ冷静に考えながら見ていたのに、
「四季・ユートピアノ」ではそんなことをする気になれなかった。
そういうことをするのはもったいないくらいに感じられた。
主人公である女性の、人生の中でのいろんな人々との別れが主題といってもいいのに
見ていて僕は幸福な気分でいっぱいだった。
佐々木昭一郎という演出家を知らなかったのと同様に僕は中尾幸世という女優も知らなかった。
今ではたまに朗読の仕事をするぐらいだという。
「夢の島少女」も中尾幸世が主演であるが、終始ぶすっとしていて何事にも興味がない、
そんな少女だった。15歳のとき。
それが「四季・ユートピアノ」の時には20歳?
ええっ!同一人物?と疑いたくなるくらいにきれいになっていた。
明るくて元気があってユーモアがあって、華があって、ピュアで。
ああいう人が映画に出てくれることになったら俺明日にでも会社辞めるよ。
演出家と女優のここまで幸福な組み合わせってそうそうないよなあ。
存在感がぶつかり合うことはなく1つの作品の完成に向かって全てが昇華されていく。
---
私の本名がバレるんですけど、まあメールアドレスでも分かってしまうので良いでしょう。
ここでは長くなるので略しましたが、誤解を招くかもしれない表現もあるので、興味ある方は是非
個々の作品に対するコメントのもっとある彼のサイトへ行ってみて下さい。
数ある日記サイトの中では(最近1日分が長すぎるけど)かなり秀逸なサイトだと思いますので、行かれた方は
掲示板にも何か残していってあげてください。 ↓
写真アップしました 投稿者:クロカワ 投稿日:11月27日(火)23時01分30秒
TAMA CINEMA FORUMのHP上で25日当日のスナップがアップしました。
トップページの「写真レポート」(だったかな?)をクリックしてください。
トークの時の写真が少し見れます。
とりあえず、ご報告まで。
誰か教えて 投稿者:リトルリバー 投稿日:11月27日(火)22時22分03秒
25日の質疑応答で、佐々木さんは「1億分の1、つまり1万人の人が理解してくれればいいと
思ったので、ビデオやDVDにしようとは全然思わなかった」と発言したと思いますが、
計算が合わないので聞き間違いでしょうか。池田博明さんは「1億人のうちの十分の一くらいの
人、つまり1千万人」と書いているのですが。1万人と2回出てきた記憶があるのですが。
皆さん、よかったですね。 投稿者:宮田虎彦 投稿日:11月27日(火)22時12分32秒
micchann様、ちな様、よかったですね。お気持ち、お察し致します。
私は、静かに応援致します。私は、
中尾さんと”夢でお会いします。みなさんの思いとともに”
それにしても、中尾さんのサインってどんなのかなあ。
(黒板の”榮子”は下手だったよ。)
夢のコンテンツを増やしてくださいよ。いいじゃないですか。
誰が損するわけでも無し。(私はDQ風に茶化そう)
はじめまして 投稿者:yama@No.04 投稿日:11月27日(火)19時44分28秒
こちらには初めて書き込みさせていただく者です。
自分も情報に気がつくのが遅くて観れなかったうちの一人です。
"ユートピアノ"は十代に観た映像の中で大変印象に残る作品だった
ので非常に残念な気持ちでいっぱいです。
同様に次回を期待します。
いいなあ〜 投稿者:おおにし 投稿日:11月27日(火)15時32分28秒
残念、見れなかった組の1人です。
いま、みなさんの書き込みから、会場の空気を味わっています。
DVD化が実現?!----グッドニュースですねえ。
>クロカワさ〜ん!
次回の(?)佐々木昭一郎作品上映会、期待してまっせ!
ありがとう微音空間 投稿者:イチカワ 投稿日:11月27日(火)13時42分27秒
「RESPECT 佐々木昭一郎」は本当に素晴らしい上映会でありました。
こんな貴重な機会を知る事が出来たのもこちらの微音空間のおかげです。
サイトマスターのあおせさんには改めて御礼申し上げます。
また今回は私の暮らす多摩の地に、あのような手作り感覚の
素晴らしい映画祭があることも初めて知る良い機会にもなりました。
これからも地元住人の一人として何らかの形で
お手伝いしたい気持ちでいっぱいです。
中尾さんは蒼く澄んだ湖のごとく、どこまでも透明で美しい方でした。
何か昔よりさらに純度を増してらっしゃるような気がして、
入ってこられると場内の空気が一変するような
繊細であるのに強烈な存在感を漂わせてらっしゃいました。
佐々木さんからは何か強大な生命力を感じました。
クリエイティブの力というのは、制作者の命の力に比例するんでしょうね。
今となっては数十年も前の話なのに
作品各々の制作過程を、事細かに覚えてらっしゃっていて
小柄ながらもその中には、はち切れるほどぎっしり詰まった
高密度で上質な存在を感じました。
是枝監督はあまり多くを語らない静かさの中に
燃え盛る情熱を秘めてらっしゃるような方でした。
見るべき星がまた一つ増えた思いです。
佐々木さんは、いつにか必ず新作を創って下さると思います。
佐々木さんの生命力に触れた今、それは確信となって心に残りました。
すべての方のおかげです 投稿者:クロカワ 投稿日:11月27日(火)11時58分27秒
25日TAMA映画祭の会場にお越しくださった皆様、本当にありがとうございました。
途中からいらして、入れなかった方、様々な事情でお越しになれなかった方の
ことを思うと胸が痛みます。次回は川シリーズをぜひ!という声に勇気付けられて
早くもやる気になっていますので。
まだまだ、映画祭を含めやるべき事がたくさんあるため掲示板を見るのが
やっとですが、落着いたらゆっくりおじゃまさせていただきたいと思って
います。感想を見るのはとても楽しみです。
ご質問、ご要望がありましたらこちらでも、TCF掲示板でも直接メールでも
かまいませんので、お寄せください。
お答えはちょっと遅くなる事もあるかもしれませんが…。
最後に、参加されたみなさま、あおせさんにもう一度お礼申し上げたいと
思います。みなさまのおかげであの場が出来上がったのだと思います。
特に拍手のタイミング!感激でした。
ありがとうございました!
共鳴した空間 投稿者:nori 投稿日:11月27日(火)07時56分42秒
25日会場で知り合ったチェさんガンテさんあきら少年どうもありがとう、会場に集まった様々な音叉が空間を共鳴させて大きなバイブレーションを生んでいました。こんな機会を与えて下さった黒川さん本当に御苦労さまでした。ふだんはこのサイトには資料提供しかさせていただいていなかったのですが、書き込みは初めてです。DVD化についてはやはり時代の必然なのでしょう。最後までていねいにファンの期待に応えていらした佐々木さん、中尾さんには脱帽です。佐々木さんの作品は八月の叫びまでたくさんあるので是非毎年すこしづつ全作品上映して下さい。
宝物の一日 投稿者:みどやん 投稿日:11月27日(火)06時19分53秒
25日の映画祭.
なんだか夢を見ていたような,まだ夢の中にいるような.
中尾さんの存在感.とてつもなく質量の大きな星がひっそり輝いているような感じでした.
入場されるとき,そして,最後のメッセージ.泣けてきました.
佐々木さんには,映像と音楽についてお尋ねできて,緊張しましたが,サインと共に
一生の宝です.
会場でお忙しい中,対応して下さった,クロカワ様.今回の企画.本当にすばらしかったです.
ありがとうございました.
その他,微音の方々にもお会いしたかったのですが,めぐりあうことができませんでした.
なんだか書きたくても,思いがうまく表せません.
ほんとうに宝物の一日でした!!!
声のちから 投稿者:ちな 投稿日:11月27日(火)02時50分03秒
みんさんこんにちは。久々にかきこまさせていただきます。
なんだかまだよく眠れません。
こんなにも望まれ、期待にあふれた企画を立ち上げ、実行してくださったクロカワさまはじめスタッフの皆様、
そしてたくさんの情報と話題の飛び交う場を作りあげてくださったあおせさまに、
心からお礼を申し上げます。
本当にただその気持ちで一杯です。
最後の中尾さんのことば、「ありがとうございます。皆さんにお会いしたことを、ずっと、忘れません」
正確かどうか自信がないですが、おなかの奥にすーっとしみ込む、静かで強いことばに、
涙が出ました。この方が声のお仕事をなさらずにどうしましょう。
私はオーディオドラマから中尾さんを知った中尾派(笑)なので、
思い切ってサインをいただきながら、「中尾さんの声を、子守歌みたいにずっと聴いていました」
とことば足らずにお伝えしたら、すっとお顔を上げて、こちらに体を向けて、
あの大きな瞳で、一ファンのちっぽけな思いまでも、しっかりと受け止めてくださいました。
もう、トイレに駆け込んで泣きました(笑)
夢の中尾さんの生の声のものすごさに触れられたのはもちろんですが、
佐々木作品と、その創造者ご本人にあうために遠くからも集まったたくさんの方々と、同じ時間を共有できたことが、とてもとてもうれしいです。
本当に、重ねてお礼申し上げます。
#ただの中尾ファンののぼせたカキコミになってしまってすみません。
演奏家名2 投稿者:げんまろ 投稿日:11月27日(火)00時18分45秒
>ハナワ様
>リトルリバー様
確かに、ハナワさんの言う昨日の佐々木さんの発言『●●●●●●の指揮のレコードは良
く聞いた』のくだりは、リトルリバー様の言う『オーマンディーの指揮のレコードは良く
聞いた』だった様に思いますね。昨日は情報量が多すぎて、まだ聞き漏らしているかな。
皆さん、この調子でどんどんカキコして 投稿者:宮田虎彦 投稿日:11月26日(月)23時20分14秒
まてぃあ様、ありがとうございます。
yutaka様、
>言葉を選んでゆっくりと慎重に語る中尾さんの声に息を殺して耳をかたむける会場の雰囲気
こういう記述、いいですねえ、臨場感があります。たまらん!!
昨日はすばらしかった 投稿者:yutaka 投稿日:11月26日(月)23時06分53秒
はじめて書き込ませていただきます。
今回の企画を実現に導いていただいた関係者の方々に感謝します。
そして、こちらのWebページのお陰でこの機会を知ることができました。あおせさんに感謝します。
中学生の頃にユートピアノの最初の放送を見て茫然自失して以来、この掲示板に書き込んでいるみなさん同様佐々木ディレクターの作品を追いかけてきました。
今更ながらではありますが、Webというのはありがたいものです。ユートピアノを見てから何年かの間、すばらしい映像作品に出会ったと知り合いに紹介しても誰も知る人がいない。テレビ放送の宿命なのでしょうが、過去に放送されたものについて人と語ろうとしても偶然その放送に巡り合った人としかそれができない。微音空間のような場があるお陰でと今回のような企画を後方支援できるし、佐々木さんの今後の仕事の後押しすることが(僭越かもしれませんが)できるかもしれません。
とりとめもない感想になりますが、今回の上映では音声を自宅のテレビの貧弱なスピーカーとは比べ物にならないほど繊細な音で聴くことができて幸いでした。「夢の島の少女」の背景音楽も今までうかつにも聞き流してしまっていたようです。そして中尾さんに初めてお目にかかることができてとても嬉しかった(昔とあまり変わっていらっしゃらなかったし(^^;)。言葉を選んでゆっくりと慎重に語る中尾さんの声に息を殺して耳をかたむける会場の雰囲気が印象的でした。
中尾さんの楽器は 投稿者:チェ 投稿日:11月26日(月)22時54分26秒
「プサルテリー」だと思います。
古楽とかではよく使われている楽器です。
画像がこちら↓にありますね。
http://www.mmjp.or.jp/ROBAHOUSE/5iciba/kichib.html
古楽に合わせた中尾さんの朗読、聴いてみたいですね…。
無念のリタイア 投稿者:nao 投稿日:11月26日(月)22時33分11秒
映画祭を心待ちにしていたのですが、前日からの高熱が引かず無念のリタイアでした。今もふらふらで、まったく残念でなりません。やっとのことネットをつなげてみると、夢の様なお話で羨ましいです。今度の田村緑さんのコンサ−トは必ずや体調を整えて、今現在の中尾幸世さんを体感したいです。
DVD化してもう隠れた名作ではなく、真の名作として佐々木作品全てが後世に残ることを望んでいます。ゼッタイニ!
映画祭トーク 投稿者:まてぃあ 投稿日:11月26日(月)22時17分47秒
25日のトークについて、少し・・・
すっかり聞き入ってしまった部分もあり、メモを取ったりしたわけではないので記憶違い、思い違いもあるかもしれませんので、どなたか、訂正、補足など、お願いしますね。
是枝監督からのQ
「『夢の島少女』に出演するきっかけは?」
中尾さんのA
「中学時代に演劇部を作って、脚本も書いていました。TVでチラっと見た東京キッドブラザースをみてこれだ!と思いました。
東由多加さんのユートピア思想にも共感し、高校2年の時に朝日新聞の記事でオーディションがある事を知り、オーディションを受け、キッドでお芝居をしていました。
キッドの同期の人に佐々木さんの知り合いの人がいて、(佐々木さんが)ドラマの主演の少女を探していると聞き、紹介されました。」
是枝監督からのQ
「佐々木さんに会ったとき(←の印象)は?」
中尾さんのA
「自宅の近くの喫茶店で始めてお会いしました。線の細い人だなぁ、と思いました。ディレクターというとなんかこう・・・サングラスをかけている、というようなイメージがあったのですが、線の細い方でした。」
是枝監督からのQ
「作中でピアノを弾いたりしていますが、音楽は(←楽器は・・だったかな?)身近にあったんですか?」
中尾さんのA
「実家が工務店をしていて、カンナの音とか(←はずっとあった、ということでしょう)。楽器はピアノが一番最初にやってきました。その後就職してからはいろいろと・・、見つけると欲しくなってしまいます。
一番新しいのは「*○×▼?#」(←すいません。聞き取れなかった。どなたか覚えていらっしゃいますか?)と言う楽器で・・。
卓上に置けて、富士山のような形で・・・木製でピアノ線が張ってあって、こう(指で弾く仕草)を弾きます。とても可愛いらしい音がします。」
出きるだけ中尾さんの話されたように書いたつもりなんですが・・・
また、思い出してまとめます。
嬉しかったなー 投稿者:micchann 投稿日:11月26日(月)21時28分52秒
こんばんは!
昨日は気持ちが昂ぶって、ここに書き込むことすらできませんでした。
ビデオの中では繰り返し何十回も会っているのに21年経って本物の中尾さんに会ってお話ができるとは夢のようでした(T_T)
握手もしていただきサインもしてもらって、おまけに一緒に写真も撮ってもらいました。
佐々木監督にいたってはドラマ1984年12月号にサインをして頂いたのですがその際、ご自身は買いそびれて持っていないと仰ったので、たまたま2冊持ってきていた私は、ご本人に献上させていただくという栄誉(^。^)に浴したのでした。
その際「これは一生の宝物にします。」とおしゃられたので、またまた感激してしまいました。
40過ぎたおじさんが完全にミーハーになってしまった夜でした。
遠くからきた方もたくさんいらっしゃったでしょうし、また僕のように長い長い間、待っていた人もいたでしょう。
皆、それぞれにいろんな感激を胸にして家路につかれたと思います。
今回、この企画を実施されたクロカワ様をはじめ、スタッフの皆様、そしてトーク終了後も名残尽きずに残っていた私たちにいやな顔ひとつせず、お付き合いくださった中尾幸世様、佐々木監督に対して心から感謝いたします。
また、このサイトを立ち上げたあおせさま、このサイトに参加されているすべての皆様にお礼を申し上げます。
ほんとにどうもありがとうございました。
感想とお礼と... 投稿者:Mak 投稿日:11月26日(月)20時37分45秒
初めてこちらに書き込ませていただきます。
RESPECT を企画運営された皆さん、あのような素敵な時間を提供してくださり、ありがとうございました。参加できてほんとうに良かったです。
20年程前、子供の頃に見たドラマの作り手の方に、今回、お会いできたこと、非常に感慨深いです。
佐々木昭一郎氏・中尾幸世さんに対する観客の皆さんの温かい拍手になぜか感動を覚えてしまいました。
佐々木氏の深々と頭をお下げになる姿と楽しそうに当時のドラマ作りについてお話になる様子、
中尾さんの伏し目がちながら瞼の下の凛とした光と、やはりあの、呟くようでありながら心の奥に響いてくる声が印象的でした。
そうですね、中尾さんの観客の皆さんに対する最後のご挨拶、「今日のこと(?すみません、うろ覚えです)ずっと覚えています」と仰った時の表情は、榮子さんが再び乗り移ったようにも見えました。(^^)
以上、取り留めのない感想ですが、関係者の方へのお礼も込めまして...。来年は是非"川3部作"も拝見したいです。大好きでしたので。
PS.
あおせさん。こちらのサイトのお陰で、子供の頃、大好きだった川3部作の作り手の方に、初めてお会いすることができました。ありがとうございました。
クロカワさん、何度か会場でお礼を申し上げようと思ったのですが、私がおろおろしている間に機会を逸してしまいました。(^^;; この場にてお礼を申し上げさせて頂きます。
おじゃまいたします。 投稿者:LEO 投稿日:11月26日(月)18時08分20秒
みなさんこんにちは。
25日の映画祭の興奮がさめず、書き込みしました。
この企画を実現して下さった全ての関係者の方に感謝しています。
本当にありがとうございました。
「夢の島〜」は今回が初めてで、「四季〜」も最初から観たのは初めてでした。
そんな私なりの感想ですが、
「夢の島〜」は一見すると変化球で、どのように受けたらいいのか解らなかったけど、
なんとかミットに捕らえたボールからは、はっきりとストレートな感触を得ました。
「四季〜」はその反対で、ストレートに見せかけて実は変化球だったのかな・・・と。
ボールは確かにミットのド真ん中に受けたのだけど、その感触から球種がなんだった
のか、今の私にはなかなか言葉にできません。
ボキャブラリーが少ない上に野球もやったこと無いのにこんな表現になってしまいましたが、
どちらのボールも私の心に残るものとなりました。
ピッチャー佐々木の他の投球にも興味が湧いてきましたし、
次の投球にも期待がふくらみます。
みなさんはどんな球を受けられたのでしょうか?
>あおせ様
微音空間やこの掲示板には作品に対する知識の幅を広げていただき、
また興味もより深いものになりました。
このような場があることに感謝しつつ、お礼申し上げたいと思います。
ありがとうございます。
演奏家名 投稿者:リトルリバー 投稿日:11月26日(月)17時10分53秒
>ハナワ様
私の記憶では、マーラーでなく「人の望みの喜びよ」の話の時に、「ユージン・オーマンディーの『主よ、人の望みの喜びよ』…」と言っていました。
「四季・ユートピアノ」の企画書を最後に通すときに、既成の音楽をいっぱい録音して上司に聞かせたと言っていましたよね。そのときにオーマンディーの「人の望みの…」を何回も聞いていたからということだったと思います。
もっと聞きたい! 投稿者:アパッチ 投稿日:11月26日(月)17時04分54秒
私も行けなかった組として具体的なトークの内容を知りたいです。
行って満喫組の皆さん、宜しくお願いします。m(_ _)m
追記:DVD化に一歩近づいたようで嬉しいですね。
more and more. 投稿者:ギルバルス 投稿日:11月26日(月)16時25分02秒
みんなぁー。もっと書き込んでちょー。
でも本当に羨ましいぞニャロメ〜。行きたかったでヤンス。ベシだベシ。
お久しぶりです 投稿者:大仙 投稿日:11月23日(金)23時30分46秒
久々にこの掲示板を読んで焦ってしまいましたが、micchanさんありがとうございました。
掲示板をごらんのみなさん、覚えてらっしゃらないでしょうが「夢の島少女」放送後に書き込みをした大仙です。あさっては岡山から飛行機で行きます。
micchanさん、あおせさん、当日お会いできるのを楽しみにしております(^^)。
良かった 投稿者:micchann 投稿日:11月23日(金)23時21分21秒
連続書き込みで申し訳ありません。
チケットの引き取り先が見つかりました。
無駄にしたらクロカワ様やスタッフの皆様に申し訳ないと思っていましたが、これで心置きなく、25日に参加できます。
皆様、会場で会いましょう(^o^)丿
もう1枚 投稿者:micchann 投稿日:11月23日(金)22時09分12秒
こんばんは!
先ほどの1枚は必要な方が見つかりました。
でも、もう1枚余っちゃいました(T_T)
このままでは無駄になってしまうので、もらってください。
必要な方は至急ご連絡をください。
どなたか 投稿者:micchann 投稿日:11月23日(金)10時20分01秒
こんにちは
25日を目前に控えています。
皆様、いかがお過ごしでしょうか?
さて、25日の入場券ですが1枚余ってしまいました。
必要な方がいらっしゃればご連絡ください。
感謝・感謝 投稿者:とまと 投稿日:11月22日(木)23時57分33秒
です。宮田様
「夢は」と「七つ」、「Aの音」がどうしても聞き取れなかったのです。
「あー(えー)のおとーから」はAだったんですね。
小学校のピアノとお兄さんが鳴らした最低音は栄子さんの原点で
あの、冒頭と終わりの歌は四季…≠要約したものだと勝手に思ってましたので
詞にも大納得です。
教えてくださって有難うございます。
(無題) 投稿者:ガンテ 投稿日:11月22日(木)16時21分29秒
先日、楽器屋でようやく音叉を買いました。「高いんじゃないか」
と思っていましたが、¥550円とてもリーズナブルでした
ただものすごくチャちと言うか、ただ棒を曲げて鍍金した感じです
側面にあるA440の刻印のおかげでAの音がするルックスです。
(しなきゃ困るんですが)A子のマネをして耳にあてるとポーンと
どこか時報のような音が耳を通って頭の中全体に響くような感じです
音を「聞く」ということと、音が「響く」ということの違いが…
さて先日思い出したのですが、中尾さんと加々美アナの事です。
「四季…」の放送から数年後の事です、NHKで夜7時のニュース後
に番組名を忘れましたが、何か番組紹介のようなミニ番組が放送され
ていました、その番組で「川シリーズ」(多分バイオリン…のはず)
の予告があり、中尾さんが御出演されて加々美アナからインタビューを
受けていました。加々美アナの「女優さんですか?」との質問に、
はにかむようにしながら、それでもきっぱり「いえ、違います」と答え
ていました、ブルーのシャツにジーンズでごく普通のスタイルでしたが
(「川」の衣装)やっぱりA子以外のなにものでもない感じでした。
それから20年近くして再びアーカイブスで再会する事になるとは…
どなたか他に見てた人います?
PS、チェレンコフ光が肉眼で見えたときは気を付けてください、
(某JCOのバケツ臨界事故でも「青い光」が見えたそうです)
涙、泪の物語。 投稿者:ギルバルス 投稿日:11月22日(木)08時31分11秒
テレビ画面以外での映像、佐々木昭一郎本人、参考上映、・・・・。嗚呼、み、た、いーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。 でも行けない・・・・。
カミオカンデなど 投稿者:あるぷ 投稿日:11月22日(木)01時08分28秒
しばらくぶりです。
「天の記憶」まだ聴けないでいるのですが、神岡観測所が舞台なのでしょうか。ますます楽しみになってきました。そういえば、佐々木昭一郎氏が寺山修司の脚本で作ったラジオドラマ「コメット・イケヤ」は、夜空をじっと見つめ続けて新しい彗星を発見した少年(実在)が登場する不思議なお話でした(佐々木さんのラジオドラマも、時々再放送してほしいものです)。カミオカンデについては、山根一真著「メタルカラーの時代3」(小学館文庫)に興味深い記事があります。ニュートリノを特定するため、光の速度を4億分の1秒単位(!)で測定するとか、測定用の真空管は職人さんが一つ一つプーっと吹いて作っているとか。内部の写真もありますが、なかなか神秘的な空間に見えますよ。
有元利夫の、バロック音楽の聞こえてくるようなふしぎな浮遊感の漂う絵、私も好きです。この際宇都宮まで見に行ってしまおうか…
私も映画祭、こっそり参加させていただきます(クロカワさま、チラシありがとうございました)。テレビ画面以外で見るのは初めてなので、楽しみです。
ハーメルンのハモニカ吹き 投稿者:黒い羊 投稿日:11月21日(水)23時23分33秒
報告です。『親も子も音に触れた∴齠・育児支援コンサート』…朝日新聞の21日号に記事が載りましたので、わたしも気を取り直してちょっと書いて見ます。▽中尾さんとの毎夏の公演でお馴染み(?)クロマチック・ハーモニカの小林史真さんが、勝どきの「トリトンスクウェア」内、新生「第一生命ホール」で開催された「育児支援コンサート」に出演されました。▽あいにく、4歳から5歳の子供たちを別室(第3会議室)に引き連れていっての演奏でしたので、我々大人の目の前にはとうとう現れませんでした。もし、わたしに4歳の子供でもいれば「お姉ちゃんどうだった?」などと様子を聞けたのですが…。▽プログラムによれば、ハープの片岡詩乃さんと一緒に「千と千尋の神隠し」(「いつも何度でも」ほかのメドレーでしょうか)「五月の夢の歌」(?)他の演奏と、Marie Hall Etsマリー・ホール・エッツの絵本《わたしとあそんで》の朗読、楽器と遊ぶ…とあります。▽小さな子供達がたくさんの会場でした。記事にもあるように、ボランティアのみなさんの事前準備(人数分のマーカー書き込みのある地図!)や進行のむずかしさがヒシヒシつたわってくるようでした。実はこれら絵本についてはウンチクを持ちました。また主演のピアニスト仲道郁代さんは、演奏しながらナレーションを…!、ひなたあつこさんの巨大スライド絵画が…!他の方とのクロストークにならないように、しかるべき間をおいてご訪問いたします。
追伸。北大路魯山人ですね。とまとさん教えていただきありがとうございました。
とまと様、この歌のことですよね。 投稿者:宮田虎彦 投稿日:11月21日(水)00時34分40秒
1985年3月20日(水) 23:25〜25:10 海外版
エミー賞授賞式および解説つき(放送開始60周年記念・ドラマシアター) では、
夢は 風の中にきこえる
あの音。
虹色の 七つの音よ。
雪の日に 消えた
あの音。
風よ うたえよ
A(アー)の音から
アー
ララララ(リフエインされる)
ドラマの最後で、再びこの歌。ただし、「A(エー)の音から」と歌われる。
深刻、雅、・・・ 投稿者:とまと 投稿日:11月21日(水)00時18分56秒
これは魯山人の言葉ですよ。
「これらの言葉の要素を自分の絵の中にもつ事が目標です」
と言うのは生前の有元さんの言葉です
まっ、まさか・・・ 投稿者:あおせ 投稿日:11月21日(水)00時04分31秒
宮田さま、まさか、いいだしっぺというと・・・、カミオカンデの記事・・・、はうっ、私ではないですか。うーん、パスポートが・・・、いやいや、それ以前に私はビンボだし・・・、うーん、まいった。
とまとさまも、ご無沙汰でした。そうか、とまとさまは「部屋の星座」をごらんになっているんですね。『芸術新潮』を観ていて、多分、こんな感じじゃないかなと想像はしているのですが・・・、そうだ、微音空間2(暫定)をごらんくださいませ。参考になるかと思います。
あきらさん、大丈夫ですか、とにかく、一度、メールをくださいませ。
二宮さま、川シリーズですか・・・、また、うーん、メール書きます。
大竹さま、おおっと、これは。まさか、レンタルがいまもあるとは思いませんでした。あるところにはあるんですね。
そうだ、クロカワさま。お尋ねしたいこと、いいえ、お願いしたいことがあります。あぁDVD化の予定はないのでしょうか。
この掲示板でDVD化希望というと佐々木昭一郎作品の、となるのでしょうけど、いえ、今回はそうでなくて25日のトークについてでございます。
今回の御三人のトーク、私は確かにRESPECTであり、また、里程標でもあるのじゃないかと思うのです。
ドラマは私たちの中で生き続けている、私たちの生きてきた時間の中で、いつも何処かで、『夢の島少女』が『四季・ユートピアノ』が頭をもたげ、そのシーンが浮かび上がり、そして消えていく。
そう考えると、今回のトークは・・・、観ると表現せず、参加と表現するファンにとって、ひとつの大切な里程標になるのは間違いのないことだと思うのです。
多分、この思いは25日を終えれば、余計に大きくなっていくのではないかと思います。
もしも、今回のトークや参加する人達のたくさんのざわめきを、主催者としてビデオに収録されるのなら、それをDVDRやビデオにて販売していただけないかと思うのです。
きっと、これはファンにとって、本当に大切な宝物になると思います。
雅に無造作に… 投稿者:黒い羊 投稿日:11月20日(火)23時41分55秒
(本来ならばあおせさんのサジェスションにお答えしてから書くのが順番なのですが…ちょっと驚いたものですから)『芸術新潮11月号』わたしも買いました。
▽59ページの「深刻、雅、放胆、枯淡、稚拙、鈍、省略、不整美、無名色、無造作」の書の言葉。
画学生だったころの自分も、スケッチブックの裏表紙に書いていた言葉でした。これどなたの言葉なのでしょうか…。もしかして有元利夫さんのオリジナル?
情報です 投稿者:大竹 投稿日:11月20日(火)23時19分57秒
新宿区の地下鉄東西線早稲田駅近くのレンタルビデオ屋MEIGAZAに、
『四季、ユートピアノ』のビデオがありました。
お近くでしたら探してみてください。
なお、今週中は私が借りてます。
川シリーズのビデオ見たい 投稿者:二宮波子 投稿日:11月20日(火)22時40分17秒
川シリーズのビデオを是非もう一度見たいのですがどうすれば良いのでしょうか
夢 投稿者:あきら 投稿日:11月20日(火)22時23分20秒
人生は夢か…
ずいぶん 投稿者:とまと 投稿日:11月20日(火)22時03分39秒
久しぶりに書くので、「お邪魔します」という感じです。
今日、ここを覗いてみたら「有元利夫」の名前が有るではありませんか!
有本氏の絵は没後10年の巡回展で初めて観たのですが、すぐに引き寄せられてしまいました。
展覧会も終わり頃に観たため図録は手に入れられずとても残念でした。
画集とかも出ていますが、色の美しさは印刷では出ないので行けるようでしたら
皆さん是非足を運んでください。
あと、「日経ポケットギャラリー」は小さいですけど有元氏の言葉も載っているので
興味深く見られると思います。(新潮社からも小さなカレンダーが出てますよ)
その中からひとつばかり…
「ほやほやの出来立ては苦手です。…風化したものが好きです。風化するということは
物が時間に覆われるということで、時間に覆われる事によってそのものの在り方は余計
強くなる。時間に耐えて風化してそれでも「そこに在る」という存在感はピカピカの出来立てとは
較べものにならないくらいの存在感というか、リアリティを持っているように思えるのです」
さて、中尾さんですが有元氏とこんな所でつながりが有るとは思いませんでした。
前出の『カミオカンデ』が何か分らないのが残念なんですが
うーん…ますます、オーディオドラマが聞きたくなってしまいました。
『部屋の星座』という絵は「風船」というより「小さな球」のような感じです。
「四季」なんですが前から気になっていた事があります。
最初の方でマーラーの四番・第四楽章の歌、歌詞を変えて歌ってますよね?
何回聞いても聞き取れないんですよね・・・
それ、その「固有名詞をコンテンツ内に・・」というの 投稿者:宮田虎彦 投稿日:11月20日(火)21時07分22秒
チェレンコフ光もきれいですよ。
あおせさん、それ、いいアイディアですよ。
目に見えないニュートリノは、私には流星のイメージ。
中学で習った「炎色反応」では、青の炎色はなかったような気がします。
私には、昨日の「しし座流星群」の青緑が印象に残っています。
ところで、セントラルパークの赤土にできた犬の足跡は、
一体、誰が撮って(採って?)来てくれるんですか!
そりゃあ、言い出しっぺの・・・。
『芸術新潮』 投稿者:あおせ 投稿日:11月20日(火)18時34分03秒
書店にて『芸術新潮』を読んできました。有元利夫、タロットカードに描かれた絵を彷彿させます。ふいんきは全く違うかも知れませんが、以前、テレビで観た京舞井上流先代井上八千代の舞を思い出しました。
有元利夫の描く女性、井上八千代の表情、一見、表情がないように見えますが、顔の表情を消すことで、キャンパスすべてが一つの表情に、舞の動き全体が一つの表情になる、だから、笑顔を振りまくよりもずっと表情豊かになる。そういうところ、似ているなと立ち読みしながら思っておりました。
ついでに画集がないかなと探していましたが見つからず。帰り、ふと有元利夫の描く女性像を少し上目遣いに見つめる中尾幸世さんの姿をイメージしてしまった。とってもいいふいんきです。
ざぶとん、居間からひとつ失敬して持っていきましょう。小脇に抱えて京都から東京へ行くというのも、なんだか妙で面白いかも。
MYざぶとんのすすめ 投稿者:クロカワ 投稿日:11月20日(火)01時07分26秒
今回の上映『RESPECT佐々木昭一郎』には「見に行きます」でなくて
「参加します」という方が多くいらっしゃって、なんだか嬉しいです。
さて、ご参加の皆さんにちょっとお知らせ。
会場は多目的ホールのため、残念ながら映画館の座席ほど座り心地は
良くありません。
当日は長丁場となるために、お荷物でなければMYざぶとんなどお持ちに
なれば少しは快適では?と考えます。
休憩の際、席をキープできて一石二鳥?
今年はスタッフに名前入りのプレートが無いのですが、私は当日自分で
名前を入れようと思ってます。
クロカワを見つけたら、どうぞ声を掛けて下さいね。
空調に関する苦情、食べ物はどこで売ってるか、など何でも受け付けますので。
遠くからいらっしゃる方、どうぞお気をつけて!
ありがとうございます 投稿者:あおせ 投稿日:11月19日(月)23時34分57秒
OZさま、オーディオ・ドラマのコンテンツを充実させたいけれど、どうすればいいのかなと思っておりました。情報をありがとうございます、有元利夫、神岡地下観測所など、オーディオ・ドラマに出てきた固有名詞をコンテンツ内に詳しく追記することで、立体的にオーディオ・ドラマを観ることが出来るのではないかなと思います。
宇都宮まで行くのは無理ですが、芸術新潮は明日にでも探してみましょう。
しかし、「部屋の星座」は是非、見てみたい。ただ、見ることによって作品のイメージが大きくかわるかも知れないなとも思います。
神岡地下観測所については下記アドレスにて
http://www-sk.icrr.u-tokyo.ac.jp/doc/kam/kamiokande_j.html
有元利夫 投稿者:OZ 投稿日:11月19日(月)13時43分50秒
『カミオカンデ』の話題に関連して、
『天の記憶』で、中尾さんの役どころの女性の部屋に掛けてある絵の作者、「有元利夫」の展覧会が宇都宮美術館で行われています。(12月16日まで)
私もこのドラマで「有元利夫」の名を始めて知り、
「38歳で死んだ画家」
「中央に女性が居て、周りを8個の紙風船が舞っている絵『部屋の星座』」
「絵の中の女性の眼は何も見ていない」
というセルフがずっと気になっていてこの絵をぜひ見てみたいとずっと思っていました。
ネットで検索もしたのですが、「ありもととしお」の漢字が判らない為、てきとうに入れていたので、引っ掛かりませんでした。
最近になって「有元利夫」の字が分かり、調べる事が出来ると、バロック音楽のCDのジャケットになっていたりと、無意識で目に入っていた絵を書いていた画家と分かりました。
展覧会は来年の12月に東京ステーションギャラリーにも巡回してきますが、かなり先なので、思い切って宇都宮美術館まで行ってきました。
どこか中世ヨーロッパ絵画を思わすような静寂感や懐かしさがが漂う絵だと思います。
今発売中の「芸術新潮11月号」にも「有元利夫」の特集が組まれて組まれていますので、書店に行けば見る事が出来ると思います。
残念ながら肝心の『部屋の星座』は展覧会にも「芸術新潮」にも出ていませんでしたが、大体どのような絵かは分かるような気がします。
私も25日にはこっそり参加します。
私も若林彰氏に気づきました。 投稿者:宮田虎彦 投稿日:11月19日(月)02時01分05秒
しし座流星群を15分で20個ばかり観測しました。
銅が発色するのでしょうか、青緑のような色です。
『天の記憶』のチェレンコフ光は青白いそうだから、ちょっと違うか。
ところで、本当にチェレンコフ光なるものは、あるのかなあ。
『カミオカンデ』が観測不能なので、私は流星群を代わりに観測しました。
若林彰氏発見 投稿者:buki 投稿日:11月19日(月)00時20分36秒
今アーカイブス「タイムトラベラー」見てて気付いたんですけど、
記者会見の白衣のお医者さん、夢の島少女の「大人」を演じてらした
若林さんですね。 いやそれだけなんですけど
何軒か 投稿者:あおせ 投稿日:11月18日(日)23時50分57秒
何軒か、近くの書店をまわり、『月刊 ドラマ』を探したのだが見つからず。
黒い羊さま、音を通じて共感できる空間はホールにだけあるのではない、それを前提とすれば「アウトリーチ」、面白い試みではないかと思うのです。演奏することが嬉しくて楽しくて、それを自分以外の人にも受け入れて欲しいと思うのなら。まっ、仮に経済的なことをきっかけとしていても。
コンテンツ記事内、83年2月25日の週刊朝日の記事など興味深く読んでいただけるのでは。
Outreach 投稿者:黒い羊 投稿日:11月18日(日)22時44分22秒
たぶん皆さんのお話をさえぎってしまいます。御免なさい。
最近あるコンサートのプログラムで、新しい言葉を知りました。「アウトリーチ」というものです。「さまざまな場所へこちらから出かけていってコンサートを行い、音楽に身近に触れていただく」とありました。▽どうしてクラッシック系の演奏家の方達が、ホールに安住していられないのか? 聞きたいと思う人たちとの間はそんなに遠いのか? そんなことに対しての前段は省かれています。わたしも下手な類推は慎みます。おそらく理屈じゃないのでしょう。▽えっ?こちらのサイトとどんな関係があるのかですって?! 飛躍してしまいますが、わたしはすぐに中尾幸世さんの活動のことを思い浮かべました。「中尾幸世さんは、企業での仕事を投げ打ってアウトリーチ≠ニいう大きな文化的運動の流れに身を投じていった」なんて戯れに書いてしまいます。
良かったですね 投稿者:あおせ 投稿日:11月16日(金)18時54分00秒
ショコラさま、チケット買えましたか、良かったですね。甘い物好きのあおせは気になって仕方がありませんでした。とりあえず、これで一つは安心です。
あとは、そう、あきらさま、大阪から自転車でとのことでしたけれど、大丈夫でしょうか。
さきほど高速バスのサイトを覗いていたら、まだ空席はあるようです。バスの方がいいかも知れませんよ。バスの空席表は下記アドレスにて。
http://www.jrbuskanto.co.jp/tk/kuu_night.htm
お返事送れてごめんなさい 投稿者:クロカワ 投稿日:11月16日(金)14時23分56秒
ショコラさん、いまうちの映画祭の掲示板にお返事出してこちらに来たら
ここにいらしたのですね。おそくなって本当にごめんなさい。
なかなか状況が見えない段階だったもので…。
こちらの皆さんにもお知らせしなければ、と思っていらのですがローソンチケット
に続いてチケットぴあも売り切れました。それ自体はとてもうれしい事なのですが
このままでは当日券が出せるかどうか微妙な状況になってまいりました。
なるべく、ぎりぎりまで予定がわからない方たちのために残しておきたいと思って
いたのですが…。
以前お伝えしたとおり、多摩市内ではまだ若干チケットが残っていますので
なるべく都内の方は、ご面倒でも前売りをお求めになる事をお勧めいたします。
そして、地方の方は…ううう、すみません。
第2弾をぜひ!と考えています。(あくまで、今は私だけの考えですが)
そして、チケットをお持ちの方も自由席ですので30分前の開場時間までに
お越しください。
前にもしかして、整理券出します、と言ってしまったかもしれないのですが
私の間違いでした。並んでいただくことになると思います。
色々と面倒をおかけします。
見たい方すべてのご希望に添えることが出来ないのが、とても心苦しいです。
作品は逃げませんから、また私に出来ることをやっていきたいと思います。
買えました! 投稿者:ショコラ 投稿日:11月16日(金)13時41分26秒
あおせ様、
結局ぴあでチケットを買いました。ご心配ありがとうございます。
映画祭の掲示板にも書き込んだのですが、上映当日は整理券など
出すのでしょうか? 上映時間ギリギリに入って「立ち見」という
事はあるのでしょうか?
連れがちょっと遠くから来るもので、そのあたりの情報がわかると
大変にありがたいのですが。
参考上映 投稿者:あおせ 投稿日:11月16日(金)00時28分32秒
そう、参考上映ですよね。トークが2時間半、その間に上映されるのでしょうけど、私も何が上映されるのか楽しみです。クロカワさんに問い合わせれば教えてくださるのかも知れませんが、うん、当日の楽しみにしておいたほうがいいかも知れません。
上映も1時から6時50分までとか。みどやんさまのおっしゃるとおり一日がかり。私も出来るだけ用事は18日に済ましておかなければ。
そうだ、ショコラさん、チケット買うことできたのだろうか。チケットぴあとかではまだ残っているのかな・・・
あと10日 投稿者:リトルリバー 投稿日:11月15日(木)23時52分55秒
あおせさん、おかげさまで私もにっと笑える一人です。カミオカンデという
名前も好きだったのに。
おおにしさん、公明新聞日曜版の資料を提供したのは私なのですが、話題に
とりあげていただいて、あらためて私も読んでみました。確かに佐々木さんの
構想では3部作のほかにももっとありました。1984年10月の講演では、具体的に
フランス、フィンランド、韓国、アメリカが候補に挙がっていると言っていました。
実際、A子がセーヌ川を旅するという幻のフランス篇の物語が、エールフランスの
機内誌に連載されたのです(どなたか持っていないでしょうか)。実現しなかった
のは、恐らく社会人になっていた中尾さんの都合かなとも思います。
ギルバルスさん、私も茨木千尋さんの文章を読みました。国内版と国際版を比較
したいと思いながら、忙しくてなかなかできなかったのですが、いろいろと違い
があるようですね。中尾さんのナレーターも英語バージョンとか何度か録られた
みたいで、それだけ音、音楽にこだわったということでしょう。
micchanさん、1996年BS版が国際版というのはわかりましたが、この時の番組
では、インタビューとか解説はあったのでしょうか。見損なっているからよけい
知りたいのです。
もうすぐですね 投稿者:みどやん 投稿日:11月15日(木)12時31分16秒
みなさん,こんにちは.
25日,迫ってきましたね.私は,子どもが泣こうが,今回は一日がかりで出掛ける覚悟でいます.
今年は,ずーっと忘れていた,ポー川という名前から,中尾さんのこと,あおせさんのこのHPにたどりつき
記憶がどんどん鮮明になり,小学生のころ衝撃を受けた,佐々木作品に再会した,記念すべき年なんです.
その一年の終わりに,すばらしい体験ができることで,もう舞い上がっています.
それに,色々な感受性をもたれる中尾ファンのみなさまに出会え,世界が広がりました.
25日,会場で何人の“微音の人々”にお会いできるでしょうか?
みなさま,風邪をひかれませんように.
反響 その2 投稿者:ギルバルス 投稿日:11月15日(木)11時43分04秒
今回の放映前に約40名の人たちに普及活動を行いましたが、あおせさん同様、時間が遅い!とか、寝でらったー!等と言われつつも半数以上の友達から反応がありました。ちょっと紹介します。
暗い! いい番組だとは思ったが、感動はしなかった。女優の演技が下手だ。そんで何なのよ!眠くなって、マンガ夜話のあしたのジョーを観そこなったじゃねーか。等々、散々なもの。
逆に好印象だったと言った人に共通していたことは、懐かしい気がした、寺山修司の雰囲気を感じた、他の佐々木昭一郎作品も観たい、という3点でした。
残念ながら25日は行けません。ただ参考作品上映?とかいう文字が非常に気になります。何なんだろう、あー、悔しいっ!
行かれる皆様、是非いいお土産を持って帰って来てください。
ありがとうございます 投稿者:micchann 投稿日:11月15日(木)00時13分46秒
ギルバルスさん、ありがとうございます。
早速、茨木千尋さんが「『四季・ユートピアノ』放送バージョン差」拝見いたしました。
本当に奥が深い作品だとつくづく思います。
僕は1980年の初放送時の録画は持っていませんが、1981年の再放送のときの内容は、アーカイブス版とまったく同じでしたから今回の放送は国内版ということだと思います。
宮田さま 投稿者:あおせ 投稿日:11月14日(水)22時16分51秒
『DQ』を聴いている人だけがにっと笑ってしまう書き込みありがとうございます。しかし、宮田さまがいらっしゃらないとは・・・、いらっしゃるとばかり思っておりましたのに。
ギルバルスさんのこと、うらやましく思っておりました。良い友人がいらっしゃって・・・
私なんか、ごめん、寝てしもてん、ごめんなぁとか、録画しよう思とったんやけどビデオの電源入れるの忘れてただとか・・・
ところが先日の日曜日、数年ぶりに会った友人が観たよ、とっても良かった、ビデオ撮ったからいま友達に回しているねんと・・・
しくしく、ぐしゅぐしゅ・・・、鼻ずるずる・・・
友人の後ろ頭、後光がさしているようでございました。・・・合掌
お騒がせしました。 投稿者:角田博英 投稿日:11月14日(水)21時53分39秒
前後の方には、大変恐縮です。
▼わたしには固定観念があるのかも知れません。『言葉にされなかったものは、無かったことにされてしまう』。例えば…今までいろいろな資料を漁る機会がありましたが、あるはずの「中尾幸世」「佐々木昭一郎」のお名前が載っていないという場面に当たることが多過ぎてしまいました。個人的に、落胆の積み重なりがありました…だからこの点、神経質になっているのだと自戒しなければなりません。確かに、自分の抱いている焦燥感を、他人に押し付けていました。
▼そういえばMARUさんは、最初からおっしゃっていましたね。「言葉では語れないもの」でよかったでしょうか。きわめて強引に、短絡的にまとめさせていたたけば「語れないもの」は「言葉にされないもの」。それは「第三者には窺い知れない物」。つまり「あったかどうか、わからないもの」…!?
▼MARUさんも、いやいやながら、わたしに教えてくださったと思います。
『四季…』からうけた、まんまるいイメージ=Bホォーッという思いでした。わたしにとっては意外であり、大きな喜びでした。まさに「語れないもの」に近づくための、具体的な手がかりと感じられました。▼だから、厚顔無恥にも「感謝」と申します。十年に達するほどの、ある寂しさ≠忍んできたと言ってもいいのです。ニヒルな顔はなさらないでください。
私は、NHKにお願いしました。 投稿者:宮田虎彦 投稿日:11月14日(水)20時52分22秒
「私には、9歳と2歳のの娘がいます。
その子たちがもう少し大きくなったら、美しい『四季』や『川』を見せたいので、
そろそろここらで録画テープの若返りをさせて下さい」と。
今度は、300円ぐらいのテープで撮りますから、DVDレコーダーなんて買えないから、
遅くても早くても、いつでも構わないから、一度だけでいいから、
私、多摩には行けないも〜ん、と、お願いしました。
皆さん!気にしない。気にしない。一休み。一休み。
私には、雲上の神の会話かと、思われました。
「それにしても、カミオカンデ」の事故はショックだなあ。
中尾さんが、壊れたみたいだあ。(私は、こんなもんですよ)
追記 投稿者:おおにし 投稿日:11月14日(水)11時28分28秒
「これからも、各国の川のほとりを歩き、そこに生活する人々と共に作品を創ってゆきたい。」と書かれているところをみると、
このコラムが書かれた1985年の時点では、「川シリーズ」を続けていきたいという気持ちが、
佐々木氏のなかにはあったのかもしれませんねえ。
「川シリーズ」と「四季」の関係 投稿者:おおにし 投稿日:11月14日(水)11時22分08秒
「1985.4.21 公明新聞 日曜版」を読んで、ちょっと気になっていることがひとつ。
このコラムで、佐々木氏は、「川シリーズ」の誕生の秘密というか、いきさつについて書いておられますが、
同時にこれは、「四季」についてのさまざまで、たぶん重要なヒントにもなっていると思います。
(もちろん、文中では、「四季」について、直接ひとこともふれられてはいませんが)
で、このコラムを読む限りでは、まず先に「川シリーズ」があって、
それをはじめるために「四季」が必要になった、
あるいは、「川シリーズ」の企画をあたためているうちに、「四季」が生まれた、
とも受け取れます。
「四季」→「川シリーズ」であっても、たとえ「川シリーズ」→「四季」であっても、
作品の本質とはあまり関係ないとは思いますが、
さて、みなさんはどう思われますか?
Dearmicchann. 投稿者:ギルバルス 投稿日:11月14日(水)09時35分19秒
既に確認されているかもしれませんが、「WELCOME TO IKEDA HOME」サイトに映画批評のページがあります。その中の「1977『日曜日にはTVを消せ』」欄に茨木千尋さんが「『四季・ユートピアノ』放送バージョン差」と題して一文を寄せています。
参考までに。
感謝です。 投稿者:角田博英 投稿日:11月14日(水)00時25分30秒
今日は朝良く晴れて、空気が澄んでいるのか、富士山が見えました。
みなさま、今夜は集って頂いて、なんというか、寂しさが紛れました。
まだじっくり読んでいないのですが、JANさんのこともずっと気になっておりました。
でも、言わせてください。わたしは何となく最初に当てこすられたような感じを抱いたのでお二人にからんだんですよ。MARUさんの「意地悪」ひしひし感じてしまいました。
中尾関連のサイトに集うみなさまですもの、わたしは最初から、なんというか、無条件に、親愛の情でしょうか…いだいております。MARUさん、鋭いです。おっしゃるとおり会場からはすぐ帰って…電車にギリギリまにあいました。JANさん、ちゃくちゃくと進んで…いればいいのですが、自分が手紙のようにしか書けないことに、改めて気づかされた次第です。とにかく、定期的に、わたしは語り続けるようにします。わたしは無駄でも間違っていても、言葉があるほうが、よいとおもっていますから。
今宵はごく簡潔に行きます。
佐々木さんが使った「普遍性」という言葉は「創造されたもの」の「実在感」のことを指している思います。説明はまたあとで…。
今夜は掲示版を見てほんとによかった。今日はよく眠れそうです。本心からそう思っています。
25日に会いましょう 投稿者:micchann 投稿日:11月14日(水)00時09分49秒
僕も25日のチケット手に入れました。
あおせさんのおっしゃるとおり、またアーカイブスに中尾さんが寄せた言葉のようにひとそれぞれの「四季・ユートピアノ」があるのでしょう。
僕にとっては劇場で多くの人たちと同時に見る初めての「ユートピアノ」です。
僕自身、21年前の感じ方とはきっと違う感動を味わえるような気がいたします。
21年前、大学時代通学電車だった京王線に乗って見に行きたいと思います。
なんだか京王線のクリーム色の電車がタイムマシンのように思えてきました。
話は変わりますが、1996年放送の「ユートピアノ」BS版は100分です。
アーカイブス版との相違点をもう少し調べてみたいと思います。
では、皆様、会場でお会いしましょう。
天の記憶 投稿者:あおせ 投稿日:11月13日(火)23時53分56秒
おおっと、ひょっとしてこれは管理人の出番というものでしょうか。
さて、今回の興味深いやりとりをありがとうございす、MARUさん、しばらく退場されるとか・・・、まっ、そんな寂しいこと仰らないでくださいませ。
一連の書き込みを拝見しながら、ふと、以前、疑問に思った「ドラマ」っていったい何なんだろうという考えを思い出しておりました。角田さんの『四季・ユートピアノ』、MARUさんの『四季・ユートピアノ』、おおにしさんの・・・、と人それぞれの『四季・ユートピアノ』がある。
・・・ドラマ、例えば私の目の前にある『四季・ユートピアノ』のビデオ・テープ。このテープを差して、これがドラマなんですよとは言えない、これはあくまでも磁気情報のつまったテープでしかない。
それでは、何処に「ドラマ」、あるのだろう、「四季・ユートピアノ」があるのだろう、
NHKiにあるマスターがそうなのか、でも、観る人によってそのドラマは無限に変化し、そして、同じ人であっても、いま観るのと、1年前に観るのとでは違うかも知れない。
つまりは送り手、ドラマを作る側が一つのドラマを送り出したとしても、10人が観れば10のドラマになる。100人いれば100のドラマが生まれる、それなら、ドラマ、ドラマの本体は送り手側と受け手側の間にほんのつかの間生まれては消える蜃気楼のようなものではないか。
そして、優れたドラマというものは、そんなつかの間の生命が無限に変化し続け得るものじゃないか、そんなふうに思うのです。
角田さんやおおにしさん、MARUさんは、今回の映画祭にいらっしゃるのでしょうか、それなら、また、あらたな『四季・ユートピアノ』に出会えるかも知れませんね。あらためて、『四季・ユートピアノ』や『夢の島少女』の感想、お聞きしたいですね。
あと、『夢の島少女』の時と比べて掲示板の書き込みが少ないとのことですが、それは放送前から予測していることでした。初めて観る人の、受ける衝撃の質を考えれば。
そう、書きついでです、もう少し書かせてくださいませ。
掲示板というのは、面白くも難しい。
情報というのは簡単に伝わるのだけれど、「思い」というものは、なかなかに伝わらない。表情、声の調子、こういったものが掲示板に含み込めない以上、仕方のないことなのでしょうけれど、ある意味、ストレートすぎて誤解を招きやすい。
例えば第11回TAMA CINEMA FORUMサイト上、映画祭に寄せられた佐々木昭一郎氏の文章など拝見しますと、なんだか随分怒っていらっしゃるんじゃないかなんて思う人も多いのではないでしょうか、でも、佐々木昭一郎氏の文章や『宮さんの・・・』を読んでいる人は、佐々木昭一郎氏は、にっといたずらっぽい笑みを浮かべながら書いたんじゃないかなって思うことが出来る。
掲示板の、インターネットの、文章というのは本当に難しいものです。
話は変わりますが、朝刊の記事を読んでいて、ふと、オーディオ・ドラマ『天の記憶』を思い出しました。いえ、飛行機が落ちた記事ではありません。その下の方にあったちょっと地味な記事、「光検出器数千本が破損 東大のニュートリノ施設 観測見通し立たず」
ニュートリノ観測施設スーパーカミオカンデにて検出器破損の記事です。
オーディオ・ドラマ『天の記憶』、中尾幸世さんが神岡地下観測所にてニュートリノの観測データを送っている女性の役どころでした。
まっ、つらつらと書いてしまいましたが、『RESPECT佐々木昭一郎』、まで、もう2週間を切りました。さて、心の準備はよろしいですか、長丁場です、冷え性の方は座布団を、私のように喉の弱い者はのど飴とペットボトルのお茶はかかせません。
そして、当日、クロカワさんがいらっしゃったら、挨拶をしなければなりません。そうです、きらきらとした少年少女の眼差し、満面の笑みを浮かべで、「来年は川三部作ですよね、うふっ」、こんな風に次々と挨拶されれば、クロカワさんも、そうか、来年はそうだよなぁ・・・と、洗脳・・・、いえいえ、理解を示してくださるやもしれませんね。
そうだ、まてぃあさんもいらっしゃるとのこと、クロカワさん捕まえて、一緒に「うふっ」と笑みを浮かべましょうか。
共感と不寛容 投稿者:MARU 投稿日:11月13日(火)22時16分43秒
角田さんは、感性・論理、暗・明、固有性・普遍性…等、二元論的対立構造で認識されるのがお好きなようですね。
私がはじめて「四季 ユートピアノ」を見て感じたことは、言葉で表現できない、としか言いようがないものです。ただ対立概念(二項対立)を超えた大きな円(まる)のイメージを直感し、日常を綴るだけで形而上的なものが表現されていることに驚嘆したものです。なぜ、そうなのかの問いはそこから現在まで続いています。その中で私なりの豊かな発見を沢山してきました。
なぜ角田さんは挑発的なのでしょう。喧嘩を売るのでもラブレターでも同じですが、単に人と関わりたいのではないでしょうか。ただ不器用で孤独なのでは。
そういえば、森美術館での催しのここでの感想のうち、多くはその場の人達への好感であり「善の空間」との評もありました。一方、「よくいる取巻き連中」など特定された人達が見たら傷つくような記述もありました。彼等が微音空間を見るだろうことへの想像力に欠落しているのか、単に喧嘩を売っているのかと。「善の空間」と感じた人は心を開き初対面でも豊かな交流を持てたのでしょうが、後者は心を閉ざし孤独な独善者として佇んでいたのではないでしょうか。会場にいたあおせさんや微音の常連さんとも接触を避けていたのでは?(当日居なかったので推測ですが。)独善は不寛容につながります。私は不寛容に対しては不寛容になります。(大江健三郎のようにはなれない。)
ついでに言うと、免罪符の思考停止と欺瞞は嫌ですが、ルター、カルヴァンらReformation者の原理主義的不寛容さはすさまじいものだったそうです。
「夢の島」の放送後に比べ「四季」後はアクセス数にも関わらず「いちげんさん」の書きこみが少ないようです。書き込みにくい雰囲気になってしまってるからでしょう。初めて作品に接した人がひるむような長い論説やこの微音空間と直接関係のない日記のような長い書きこみが増えています。最近は書きこみ量の多くが特定の人に占有されています。(私を含めて。自戒です。)しばらく退場します。
おおにしさんの「パス」は大人の態度です。挑発に乗る私やJANさんは未熟ものかもしれませんね。
昨日は、NHK専務理事の誠実なコメントを引用して揶揄してしまい、反省しています。
普遍性 投稿者:JAN 投稿日:11月13日(火)19時35分32秒
ある部屋で雑談をしていたらところ、声高な人が入ってきて盛んに自説を展開、それまでいた人が「私はここで」と退室していくという構図は日常しばしば経験します。
盛んに話してる人に悪意は無く、ただ自説展開のステップに他の人に議論を吹っかけるががなぜかうまくいかないとか。構ってもらいたくて喧嘩を売る人に誰もわざわざ近づいたりしません。
みなさん言いたいことが沢山あるのでしょうね。
聞いてほしいとの意識が強いほど、場を読めなくなったりします。
わたしはいつかどこかで自分の作品論を展開したいですが、作品に接して間も無い人も目にする掲示板に全てを書くことに強い躊躇を感じます。
それは作品への「何故」という貴重な問いかけを結果として奪ってしまうからです。
問いかけはしたいですね。(問いかけにわかりやすい答えが示されたら「果たしてそうだろうか」とからんでいくかもしれない。
「私は『なぜ』になりたい」(二十歳・by寺山+佐々木)のです。
佐々木氏の原風景やトラウマや三島原作脚本他については、中尾さん作品の監督である佐々木氏がらみで「微音空間」でもいいけど「すぅくらっぷ館・佐々木昭一郎掲示板」のほうがよりテーマにあっているのでは、と感じます。
あちらも盛りたてましょう。
例えば「赤糸」の原作だからといって、「赤糸」を離れて寺山論を(他に相応しい掲示板があるのに)「微音空間」で延々とやられたら辟易としませんか?
それより角田さん、ご自身のサイトに作品読解・批評の掲示板を立ち上げてはいかがですか?きっとサイトコンテンツの拡充は水面下で着々と進んでるのでしょうね。
ある日、あっと驚く批評性の高い評論盛り沢山なサイトが登場、というのを期待しています。
別宅「微音空間」へのパラサイトから「本宅」での活躍へとの転換が準備されている気がします。
おおにしさま推薦の「1985.4.21 公明新聞 日曜版」を興味深く読みました。佐々木氏が普遍的なテーマを手にすることで川シリーズが実現したことが良く伝わってきます。佐々木氏の創作態度はまさには普遍性を求めての戦いなのです。
私は芸術に普遍性を求める佐々木氏の姿勢を支持します。普遍性は概念として幻想だという議論は、オリジナリティや平和、愛なんて幻想という諦観と同種です。普遍性を否定することは佐々木氏の試みを否定することなのですね。
佐々木作品は、極めて私的なものや時代や社会、はっきりした人物設定といった特殊性を出発点にし、その出発点を意識的に隠蔽し、より「いつでも、どこでも、通じるもの」(…普遍性と言い換えても良いでしょう)に高めたものとするように戦っています。しかしこの普遍性とはドグマを出発点にした無人称の空虚なものではありません。だから、見た人が今度は個々人の特殊性のレベルで共感できるのだろうと思います。
MARUさま、円環というイメージを、見る人がその人の固有性から輪廻ととらえても怨霊の成仏と理解しても良いじゃないですか。だからといって円環の普遍的イメージが損なわれるものではありません。
不毛な議論より、それぞれの人が佐々木作品を見て思い出した少年少女時代の固有の思い出や、川の思い出を生き生きと語ったほうがいいな、と思います。評論家志望の人には不満かもしれませんけど。
作品研究や評論の極めてオーソドックスな方法として、時代背景・社会背景を調べたり、作者の日記や著作に動機を求める(仮に「証拠物件」と名づけましょう。)ことはあります。学問としては重要なステップですが、鑑賞には邪魔だったりします。想像力の枯渇した学者は、「証拠物件」だけに頼ったりします。しかし鑑賞は作品と自分の間にあるものが全てです。
ナポレオンのことを知らずにベートーベンの「エロイカ」は感動できない、とか、当時のポーランドを知らない「革命のエチュード」への感動は偽もの、なんて言えませんよね。
おおにしさま 投稿者:角田博英 投稿日:11月13日(火)12時53分33秒
読んでいただいただけで満足です。
グリーンのピアノ 投稿者:MARU 投稿日:11月12日(月)18時40分57秒
ふくろうさんへ
「日記をピアノに隠す?場面」、確か「送り状」と書いてありました。
「グリーン」のピアノ。グリーンは唐突なのですが鍵は大川さんでしょう。次ぎの場面で、榮子と大川さんがいる公園で、彼等の背中の壁は「グリーン」のペンキで塗られていてイナズマと書かれている。イナズマから「大きな」声してるよ。で、つぎの「大きな声」のオペラ歌手へとフックで意識が連続していきます。
鈴について 投稿者:MARU 投稿日:11月12日(月)13時35分27秒
鈴と音叉についての角田さんの論考を読みました。角田さんには、その解釈で合点が行くのでしょうね。しかし私は単純化に違和感を覚えます。私の見方は理詰めに解釈するよりも、自分で直感したものを、自分が何故そう感じたかを自分に説明していくやり方ですので、論理の一貫性は弱いかも知れません。違和感を覚えるのは、鈴が一貫して大切なものとして扱われているからです。鈴と音叉を「暗・明」の単純な対立概念とは感じません。私には、鈴=家族(の運命)の構図が見えます。さらに音叉=自立した人間、しかし孤立者でなく他者との関係で成り立つもの(の希望)が見えます。前者を暗、後者を明と対立構造で角田さんはとらえていますが、対立構造だけでなく対になったり寄り添ったり重なったりという関係を私は見ます。角田さんは「家族の運命」が暗なので一段飛ばしに鈴=暗ととらえていますが、場面によっては基本の見方は私も同じです。しかし「暗」を否定的なものととらえてはいません。榮子は「運命愛(ニーチェ)」の人です。悲運を他者に委ねず自らに引受け「生」の一回性を貫くということです。盲目の少年との場面について、「肉親たちのことを意識下でも想い続けていることの形象化=vと御指摘のようにそこからも鈴が家族の形象化ということが読めます。私には理屈抜きに単純に、榮子が失われた家族への思いを意識的に常に身につけている、と直感しましたけど。
荷台に手鏡と交換に投げた鈴の解釈について角田さんは、「「暗」の断固とした拒否。運命への怒り・抗い。雄々しい精神。」とありますが、これにも私は違和感を覚えます。「手鏡を奪って(窃盗)、忌々しい鈴を投げつける」という行為を榮子がしているようには見えません。投げ捨てたのに、その後もまた鈴を身につけるという矛盾も説明がつきません。あの手鏡は榮子の母そのもので大切なものなのです。「母、自分の鏡」。大切なものとの引き換えに、大切なものを差し出したのです。母と家族を交換したのか?って?ご安心を。鈴は象徴です。どこでも買えます。しかしあの鏡は手に入りません。と、私は感じたのです。
鈴と音叉について、少々。
鈴は、完結した世界に守られて、小さな音を出します。
音叉は、単独では振動するだけで音を出すことはない。文字通り共鳴する他者があって初めて音になるのです。
単純な記号論的にするつもりはありません。しかし以前佐々木氏が「私の作品は記号論です。」といっているのを聞いた事があります。
ついでに言うと、川シリーズ三作目でA子がラド少年に音叉をあげてしまいます。これを見たとき「川シリーズはこれでおしまい」と直感してしました。
私は、輪廻というよりも「生の一回性」の中での「永劫回帰(ニーチェ)」のようなものを「ユートピアノ」のもつ円環のイメージから感じました。(またニーチェですが。)
輪廻、業、解脱といったイメージを私は感じません。しかし仏教が身近な人にはまた違った感じ方をするのでしょうね。本当に人それぞれ、自分の「四季・ユートピアノ」像があるのだと思いました。
そのなかでも毎日新聞W記者の新聞評と東京新聞での清岡卓行氏のエッセイの二つはすばらしいです。「微音空間」で読めます。
語りすぎました。「黙っていた方がいいのだ。ことばがことばをこえたもののためにみずからをささげようとせぬくらいなら、より深い静けさのために歌おうとせぬくらいなら。」というような詩を思い出しました。誰の詩だったかな。
普遍性についての角田さんの苛立ちと思い込みについても発言したほうがいいのでしょうが、私にはもっと大切なことが沢山あるのでなかなか時間が割けないです。普遍性ということばで、思考停止に追い込むのは確かにいけません。タマ・フォーラム25日のプログラムをTAMAのサイトで見ましたが、NHKの専務理事が、佐々木作品は「国際賞を獲得する普遍性を持っていました。」と書いていて笑ってしまいました。
やばい 投稿者:角田博英 投稿日:11月12日(月)13時01分23秒
やばい50年でした。
まさか… 投稿者:角田博英 投稿日:11月12日(月)12時08分26秒
佐々木さん、もしかしてあなた、三島由紀夫の著作権が切れるのを待っていらっしゃるのですか。
まさか…、これでは悪質なデマですね。
トラウマ 投稿者:角田博英 投稿日:11月11日(日)13時39分27秒
夜間の言葉の暴走というやつです。喧嘩なんて心外です。ラヴ・レターのつもりだったりして。「中尾幸世」「佐々木昭一郎」を盛り上げるためのパフォーマンスです。たらっと汗がでてしまいそうなセッションへのお誘いです。些細な「意味合い」の違いをとりあげて大騒ぎしただけです。ちんぴらの手口ですね。みなさんもわかってらっしやいますよ、きっと。
もしかしたら、佐々木氏は、まだ戦争のトラウマをかかえているのかも知れません。1976年の書評にちらっと告白されています。
「普遍性」というのは、具体的な事実について触れるのがつらいということの表明であるかも知れません。いずれにしても、事実について云々するのは、佐々木氏の仕事ではありません。
また「衒学的」になってしまいますが、1971年、72年ごろの『シナリオ』『映画評論』をちらっと読みました。
和田矩臣(?)という方が『マザー』『さすらい』について言及していますが、中身には何にも触れていません。「ドキュメンタリードラマ」の流れの中の一齣なんです。まともに内容について指摘した方なんていなかったはずなのです。
それに当時の佐々木某という放送作家の方の評論なんてムチャクチャ過激ですよ。「殴れ」「刺せ」までいっていますから。いずれあの方たちの仕事についても、ツッコミをいれる羽目になると思います。「言論封殺」がお得意の人たちですよ。恐ろしいですねぇ。
いま一通り読みましたが、なんらかのお返事は後日するとしまして、あるぷさんの「ミヒャエル・エンデとの比較」興味深いです。
また「衒学的」になってしまいますが、こちらは、ジャン・ジオノという作家に注目しています。《木を植えた男》で著名です。
戦前に紹介されていますが、おそらく「アルプ」の路線に通じるような「牧歌的(これも問題をはらんだ表現)」な作品としてです。
ところが、平和主義を唱えた言辞が災いして投獄され、沈黙を強いられ、戦後に復活したときには、作風が暗示的なものに変貌していたとのことです。《気晴らしのない王様》《喜びは永遠に残る》などが訳出されています。ラテン系の「はらわたのある」作家だそうです。
『イメージフォーラム』の80年代の全半の号に、佐々木昭一郎氏の常識はずれのアンケート回答がのっています。三島由紀夫『美しい星』のラフな自作シナリオも掲載されています。
佐々木昭一郎氏は、いまでも、既成作家の小説を脚本化するという「修行」をしていらっしゃるのでしょうか。
ジャン・ジオノの戦後の作品は、大筋では、気にいるのではないかと考えます。たまには既成作家をとりあげるのもいいですよ。
夢想 投稿者:ふくろう 投稿日:11月11日(日)11時32分19秒
21世紀、A子はアジアを流れる。ヨーロッパより混沌とした大地。
今度はもっとエネルギッシュでなければつとまらないかも。
ヨーロッパの音階は捨て、K子とかU子とか。今度は音の旅になるだろうか。
映像・風景・匂い・風・温度・湿度・食べ物・衣服・生活・・・。
RE:普遍性 投稿者:おおにし 投稿日:11月11日(日)10時30分42秒
携帯からなので、 簡略に書き込みます。
普遍性と特殊性(反対語は何だろう? 個性?)は、一般に、二者択一なものではなくて、特殊性を深く掘り下げていくことによってのみ、個人、地域、国、時代などを越えた普遍性という水脈にたどりつけるのでは。
普遍性、特殊性のどちらに重きを置くかは、作者にしろ、観客にしろ、ひとそれぞれでしょう。
バックグラウンドを抜きに作品を深く理解することは、困難なことなのですが、それをあまりに厳しく言っていくと、例えば古典作品や海外の作品を見ること、読むことを諦めるしかありませんねえ。
楽しいですね 投稿者:あおせ 投稿日:11月11日(日)02時57分21秒
一連の書き込み、興味深く読ませていただいております。様々な意見があり、改めて気づかされたことや、考えさせられたことがいっぱいです。
また、角田さまもおっしゃるようにMARUさまの書き込みはかなり興味深いものを提示してくれていると思います。一気に『四季・ユートピアノ』と『川の流れはバイオリンの音』の距離が縮まったように思いました。
ふくろうさま、「Uwaa 2」を読ませていただいて、以前、熱心に読んだジョージ・オウエルの「象を撃つ」を思い出しました。いまでも文庫本で売っているのだろうか。それから、ふくろうさま、角田さま、「谷山浩子」については、(谷山浩子のCDを聴きながらこの文章を書いていたりする私なのですが)、まっ、この辺でよしということで、なんとか・・・。
クロカワさま、ローソン分がそうるどあうととのこと、良かったですね。これで、どなたでしたっけ、あきらさまでしたか、私のこの拙い顔も立つというものです。
宮田さま、DVD、期待いくらかなりともできそうなふいん気ですね。映画祭の次はDVD化キャンペーンを繰り広げなければなりませんね。
そうだ、ショコラさま、チケット買いに行くなら、ゆっくりしていてはなりませんよ、急いで、急いで。
うわぁ3 投稿者:ふくろう 投稿日:11月11日(日)02時04分35秒
ちょっとミスってぬけてました。
>ふくろうさま(誰も答えてくれないから。「愛の反対は憎しみではなく、無視である。」)
ユートピアノは、夢の島で呪縛された中尾幸世を救済する作品である。その後の「川」三部作という長丁場の作品で自分をすっくと立たせるために、色々な人々に出会ってなお、自分を見失わない存在として立たせるために、「女優・中尾幸世」を呪縛から解き放ち、真の高みへ誘うために作られた。「川」のプロローグとしての意味もあるが、その後に耐えうる自己を確立させるために必要だったとさえいえる。(書き込みの1と2の間に入ります。)
>ロバハウス
そうでしたねえ。サントゥールというのですか。ハンマーダルシマーはテレビなどで知っているのですが、羽で弾くとどんな音なのでしょうね。「ドゥクチア」というCDには入っているのかな? カテリーナ古楽合奏団を知ったのも80年前後。45回転LPがほしかったのですが、とうとう手に出来ずじまい。タブラトゥーラにしろダンスリーにしろ古楽から独自の世界へいってしまったのがちょっと寂しい。カテリーナも宮崎駿のラジオドラマでは自作の曲でしたから。
>谷山浩子
僕ものめり込んでいました。「すずかけ通り3丁目」は、戦争を歌った戦後の最後の歌では? 「サトウキビ畑」と並ぶ名曲だと思いますが。彼が飛行士で墜落の悪夢に怯えたり、ふられたときにテレビがなっていたり、という暗いアルバムもありましたね、好きではありませんでしたが。表が日本・裏がヨーロッパの童話、というのもおもしろかったですね。地平線まで続くキャベツ畑の映像が頭にあります。サクロンのコマーシャル「緑のために」をずいぶんさがしました。バージョン違いがあったのですよ。なぜか「てんぷら☆サンライズ」が好きなのです。「はさみとぎ」も。
Uwaa 2 投稿者:ふくろう 投稿日:11月11日(日)00時57分40秒
>あおせさま、メディアのうっとおしい状況
角田さんも指摘しているように、写さないものを自ら決めているようです。辺見庸(共同通信社)も若い人ほど、そんなもの報道して大丈夫?という感覚が強いとか。年寄りのほうが「おもしろいじゃない」というとか。ホームレスが確固とした風景としてあるのに、ドキュメンタリーとして描かれるのはここ10年ないような。ましてドラマでは旧社会主義国並。
西原りえこの漫画ではタイで腐っていく日本人が描かれていますが、今の時代ならアジアのこうした日本人を追うのも必要かと。外国へ飛び出していける能力(うらやましい)がありながら崩れ去っていく人々。
桐生悠々や正木ひろしはネットでやっと知りましたが、中尾さんのエッセイが、「あの」サンケイに載っているのが気になります。まあ、原稿をホームページに載せる手前、論評は避けて下さってけっこうですが。
>普遍と時代性
う〜ん、ぼくがふってしまった部分があるので、沈黙もできない。「普遍」と聴いたときに、時代の読めなさの意味が分かったと思いました。やはり時代を意識的にぬぐい去っていたのだ、と。しかしながら、行き着いたものにはすべて「普遍」がある、たとえ限られた時代を描こうとも。そして、この才能を生み出した「時代」とは?と、また時代の感覚にとらわれる僕なのでありました。
さて、角田さんが喧嘩売ってますよ!皆さん、がんばりましょう。(って傍観者気取りかい!ボカボカ!) 佐々木氏に関しての掲示板もあるのですが、そちらは中尾さんの話でほんわかしてしまって、なんか、逆転してますね。ここは中尾さんを女神とする方々のファンの掲示板なのでしたね。愛と同じ地平の憎しみではなく、正反対の「無視」で答えて下さるのもまた一興かと。
うわあぁ 投稿者:ふくろう 投稿日:11月11日(日)00時55分16秒
見てはいたけど、もう、どう書いていいのか。順不同の感想(書き込みへの)など。
MARUさんの解説にひたすら脱帽! ここまで記憶して反芻できることを佐々木氏は(一回性のテレビ映像で)視聴者に要求したのですね? 「普遍」を描きながらも、伝わる広さに普遍化は求めなかったのでしょうね。時代が追いついていなかった。でも、これだけの反響を呼ぶ、感覚へ訴える要素でもあったわけですね。映像と音の表現として新しい「文法」を持ち込もうとしたのでしょうか。ここで言う「文法」とは、たとえば漫画の世界では「目が点」になるという表現のようなものをさします。現実には目を見開いているはずなのに、眉毛が上がって(比較すれば)目が小さく見えることから来たものでしょうが、初期の手塚も、戦前のトムとジェリーにも似た表現はあったと思います。漫画だけに通用する文法です。佐々木作品に使われた新しい文法、それを瞬時に感覚でとらえられるには、僕たちにはどんな訓練が必要となるでしょうね?
緑のピアノ、なぜ緑? なぜここで? 違和感として未だ残っています。どなたか、助けて!
日記をピアノに隠す?場面があったような。あれは何だったんだろう。
>角田さま
アクエリアス、ですか。いつから水瓶座に入ったのでしたっけ? それまでは魚座ですよね。どんな時代なのでしょうか。個人にもまして時代の星座にも興味はありますが、不勉強で・・・。山羊にしては好戦的な・・・。獅子座に火星があるとか? まあ泥臭さは共感しますが。あ、僕も山羊でした。でも、自分しか占う対象がなくて、あたっているかどうか解らないものですね。エニアグラム、ネットで探したらありました。ただ判定が文字化けして解りませんでした。
「輪廻」「因果律」、一人の人生の範囲ならば西洋でも理解されなくはない、と思います。生まれ変わり、「業」、キリスト教の公式な場面ではともかくも、ケルトの時代のドルイドの記憶はなくなっていない(または考古学の発達で復活して)とも思えますが。(ドルイドがそういう捉え方をしたかどうか知らないのですけど) キリスト教の中の神秘主義、キリスト教と対立する神秘主義、良くわからないのですが。ひょっとすると「科学」はキリスト教から見るとオカルト?
西洋で理解されないのは「蝉の声」だとテレビで言ってました。外国向けには必ず音を消すそうです。熱帯の音だし、雑音としか思われないのだとか。
優雅でセンチメンタルな… 投稿者:角田博英 投稿日:11月11日(日)00時53分13秒
あおせさん、谷山浩子さんといえば『コッキー・ポップ』。「♪…わたし、あの男欲しいよ…」という怪談風の唄に、わたしもやられました。(まるで演歌のように)カセットテープでアルバムが売られていたころの、最初の三つばかりを持っています。
つらつら聞いてみて、やっぱりベストは「お早うございますの帽子屋さん」「猫の森には帰れない」でしょうか。元気よく上下するメロディがいいです。
深夜放送(どこのラジオ局でしたっけ)や「カントリー・ガール」、コマーシャルで歌声が流れたときには、もう「卒業」していました。
彼女のアレンジを担当したこともある、橋本一子さんも、けっこういいんですよ。ジャズなのですが。
この前、中島みゆき嬢の『夜会』に、谷山さんが俳優として出演という写真入り新聞記事をみて、ゾクッときました。
人脈もけっこう有る方でしょうに、ニューミュージックやコミックス、ヤングアダルトファンタジーなど「今様アングラ」関係の仕事ばかりですね(といっても良く知らないのですが)。
いまや彼女の存在自体が想像力をかきたてます。きっと、まわりに居るやつが悪いんですね。彼女にはもっと何かできると思いますよ。
『コッキー・ポップ』といえば「白いページの中に」や「青春道中哀歌」を覚えていますか。「白い…」はときどきラジオでも流れます。
あの曲は、まるで、波がよせてかえす様を描いているように感じました。多数派には好かれないと思いますが、たぶんすごい曲です。
あきらさんには、反体制の、ラフな70年代なのでしょうが、わたしなどには「優雅で、センチメンタルな70年代」でした。
でも同時期には、パンクやスカ、ブルービート等が流れている世界もあった訳です。イギリスのザ・スペシャルズに、あの時出会っていたかったような気もします。
そういえば、「村八分」や「外道」の発掘音源がリリースされていたんですね。「M」のコーナーにゆくと、美輪明宏!、ミュート・ビート!、ミニスカパン?…いろいろ欲しいものがある!
ほらね、金がいくらあっても足りないでしょ。ゆきがかり上いつか聞いてみますよ。
永野のりこさん、成人コミックなんて書いてしまってすみませんでした。『ハネムーン・プラネット』をみつけて読みました。
初期作品だから、めったなことは言えませんが、不安定な思春期の感覚を好んで描く人みたいですね。絵柄が、この段階では、まだ人様のパッチワーク風なのは厳しいのでした。
『聖徳太子』。強弓でズバン、という感じでした。オールロケに近い!メロドラマではあるんですが、言いたいことは痛烈に言っていましたね。
クロカワ様 投稿者:ショコラ 投稿日:11月10日(土)16時43分36秒
ありがとうございます。
おっちょこちょいで見落としていました。
失礼しました。
明日にでもチケットを買いに行きます。
(まだ、あるかな?)
「普遍性」という「免罪符」。 投稿者:角田博英 投稿日:11月10日(土)16時38分12秒
お名前を掲げると、なんだか非難しているかのように聞こえてしまうかもしれないと恐れます。
対話的な思考のきっかけを与えてくださった、あおせさん、皆さんに感謝したいと思います(口先だけではないですよ)。中尾幸世さんのお好きな言葉は「感謝」でしたよね。感謝がどういう心の状態なのか、わたしも自分の身に刻み付けたいと願っています。
実はわたしはヘッポコ営業マンだったこともあるんです(キャッチやマルチじゃないですよ)。
理不尽な「切り返しトークもろもろ」は、するのも、されるのも、少しは免疫があるのかもしれません。驚かれた方もいらっしゃるのでは…。
わたしの言うべき言葉ではありませんが、佐々木作品について(あるいはテレビドラマについて)の議論が沸騰する場が出現するなんて、想像もできないような状態がずっと続いていました。ネット上にはすでにあるのかも知れませんが、こちらは「ポータル・サイト」ですから…。
「普遍性」についてです。佐々木氏も、きっと上映会では、無自覚に「普遍性」の事をおっしゃられると思いますが、考えれば「罪」な言葉をおっしゃったものです。どうとでも受け取れる言葉ではないですか。
『マザー』『さすらい』再放送時の『ドラマ』誌インタービューにもあるのですが、「普遍性」という表現には、具体的に指し示している対象があるはずです。
ケン・ローチの出世作、BBCの《キャシー・カム・ホーム(さすらいのキャシー)》や、そのエピゴーネンたちの一連の「社会的な不幸」を題材にした作品に対して、自作の『マザー』『さすらい』には「普遍性」があるとおっしゃったのが最初であると認識しています。
《キャシー…》は、社会の実情に必ずしも即していない「法律」で、子供と引き離されてバラバラになる家族を、ドキュメンタリー風に撮影したテレビドラマです。佐々木氏は、一連の作品の、弱者を追いつめるような劇づくり、扇情的な進行に反発を覚えられて、ご自分の再度の出発点に据えたと聞いています。
それに対して「孤児」を主人公に据えた佐々木ドラマは、どうだったのか。例えば『さすらい』は、米軍施設の周辺を撮影して、言葉にせずに主題を映像に語らせたのではないか…というのが、わたしの進む方針です。
本当は「普遍性」について正確に語るには、初期の作品と、その周辺のテレビドラマや、社会状況を踏まえていなければならないはずなのですが…。実は、まだわたしは、はっきりした意見が、とても出せる状態にはありません。
作品が生まれる背景の社会について、知らなくてもかまわないかのようなご意見があることには、正直いって驚愕しました。感動を受け取った、神秘的な思考の一端に触れた、「普遍的なもの」を知りえた、だから、個別の社会の実情や自分たちの歴史について知ることは余計なことなんだ、というふうに聞こえましたよ。
このサイトに集う皆さんは、中尾幸世ファン『四季…』『川…』ファンであり、わたしは「佐々木昭一郎」自体を問題にしている、この相違はいつも念頭において置かなければなりませんが。
福島のイベントにいった体験から申し上げれば、無料の会ですのに、中尾幸世さんの朗読はしょっぱなから「全力投球」でした。史真さんも緑さんもメルヴィン氏も、そこは長い時間でしたから、緩急はありましたが、なにかの緊張感をずっと湛えておられました。
だから、わたしも、あの方達の手前、いい加減な手抜きをする気にはなれません。うちの黒猫みたいに、思いっきり体当たりして噛み付くかも知れませんよ。
かつて「免罪符」というものがありました。金でそれを購えば、知識を得なくても、祈らなくても、放蕩していても「罪」を免じられて「天国」に行けるというものですよね。わたしには「免罪符」なんて、認められません。限りなく、いろいろな情況が退廃していくのを、黙ってみていることになると思います。
佐々木昭一郎氏は、まだご壮健だというのに、作品の受容に関して、こんなに情況が悪化しているとは…。佐々木さん、やはりあなたは(家庭には恵まれましたが)作家としては孤独な方です。あなたのおっしゃった「普遍性」という言葉は、きっと一人歩きをし始めていると思います。
マルティン・ルターが現れなくてはなりませんね。果たして、誰が「教皇」で、誰がプロテスタントになるのでしょうか。いずれにしても佐々木昭一郎の作品が論議の的になるのは、一ファンとしては「歓喜」です。
もろに雑感。 投稿者:角田博英 投稿日:11月10日(土)15時37分46秒
ふくろう様、遅れましたが、漁業権のお話、生活圏の限られたわたしには思いも寄らない事でした。ご教示ありがとうございました。
本日、佐藤幹夫演出『聖徳太子』、だいぶ長時間ですが地上波放送がありますね。やはりラジオドラマで修行して「黄金時代」の最中にデビュー。『四季…』の演出助手も務めた方です。
必ず一箇所はすばらしいひらめきのある演出をなさる方。どうかご覧ください。久しぶりの登場です。
埼玉県川口市上青木の「スキップ・シティ」、新聞(地方版)でも細かな報道を見るようになりました。8日には、大林宣彦氏会長の「さいたま映像ボランティアの会」発足とのこと。
いまいちピンとこないですが、そうだそうです。DVDプロジェクトに比べれば、不評なのは仕方ないですが、わたしは期待しています。
総務省がNHKのインターネット配信への進出と子会社の業務範囲を制限しようとしている動き、これ、佐々木昭一郎氏にとって不利益に働くのではないですか。
民間放送や新聞各社が圧力をかけているんだと思いますが、わたしNHKの味方ではありませんけれど、ありていに言わせていただければ、「低レベルの機能しか果たしていない所が、いちゃもんつけるんじゃない」的な感想を持ちました。
NHKは、ものによっては偏向しているようですが、人材(これは借りればすむかも)もストック(致命的)もない民放の「敗北宣言」であると、わたしは受け止めています。
関係ありませんが、タリバンに拘束された「柳田大元」さん。某週刊誌の、東京でヌクヌクしている記者が、彼氏を評して「フーテン人生」とか書いていました。
「煙突男」か、はたまた「金目当て、命知らずのトップ屋」か、きまった訳ではないですよ。
少なくとも、CNNかなにかをポケーっと見ている連中より、ジャーナリストとして、世界の目から隠されようとしている場所に行ったのはエライ!というのは単純ですか。
すくなくとも一発逆転のチャンスは、彼氏にはまだあるはずです。
ショコラさんへ 投稿者:クロカワ 投稿日:11月10日(土)13時21分13秒
HP分かりにくくてごめんなさいね。
トップページのチケット情報のところをクリックしてください。
ちなみにローソン・ぴあ以外は、チケットパルテノン、啓文堂書店多摩センター店、くまざわ書店永山店、永山公民館(ベルブ永山)、関戸公民館(ヴィータコミューネ)です。
ローカルな話題ですみません。
場所がわからなかったら、個人的にメールください。
チケットについて 投稿者:ショコラ 投稿日:11月10日(土)02時08分21秒
クロカワ様
多摩市に近いところに住んでいます。
映画祭に参加したいのですが多摩市内のどこでチケットを
販売してるのでしょうか?
HPを見ても分かりませんです。よろしくお願いします。
嬉しい悲鳴! 投稿者:クロカワ 投稿日:11月 9日(金)18時41分14秒
本日、TAMA映画祭の11月25日「RESPECT 佐々木昭一郎」ローソンチケット分が売り切れました!
こんな事は映画祭始まって以来だということです。チケットぴあも残りわずかだそうなので、
特に地方の方はお早めにお買い求めになったほうがよろしいかと。都内の方でしたら、多摩市内の公民館、本屋さんなどでも扱っておりますので、ご利用くださいね。詳しい販売場所は、映画祭HPをご覧下さい。
とにかく、反響はすごいので当日混乱がおきないように、最善を尽くしたいと思います。
整理券の発行、会場時間など追ってお知らせいたしますので、よろしくお願いいたします。
今日の朝、(売り切れる前)私もローソンで試しにチケットを探してみたのですがとても分かりにくいですね。『多摩映画祭 「RESPECT 佐々」』ですし…。買って下さった皆様、本当にありがとうございました。
「鈴」の表現について。 投稿者:角田博英 投稿日:11月 9日(金)00時38分17秒
MARU様、こじつけと飛躍が目立つのですが、とりあえずお聞きください。
榮子の祖父が倒れ、家計が逼迫するエピソードの前後の場面に集中して現れる「鈴」が特徴的です。感情的な意味で、暗転、明転(?!)、暗転と、一連の場面をきりかえてゆくのに見事に使われていると思います。わたしは「希望」と「この世の苦しみ」のせめぎあいを、運動のように表現するための、場面上の「核」として「鈴」があると捉えました(「シンボル」は言葉として不適当だったかも知れませんね)。
「鈴」を無くして「音叉」を拾う……(「明暗」のせめぎあいの開始です)
見知らぬ男に追われる恐怖…でも「鈴」を拾ってくれただけだった……(「暗」から「明」へ)…「紙ヒコーキ」も鮮やかですね!
次の場面、祖父が急に倒れています(「明」から一転「暗」へ)
(確かに、これでは「鈴」の役割については、かなり想像力が必要とされますね。ただこれは「表現の可能性」の問題でもあります。後続の作家達の為の夢の「新手法」…)
「鈴」を荷馬車に投げつけて手鏡を奪う…(「暗」の断固とした拒否。運命への怒り・抗い。雄々しい精神。)※佐々木昭一郎氏は、実は、緊迫したシーンの演出に長けてもいます。
さて、これからの話は、いっそう納得していただけないかも知れません。結果オーライの飛躍がかなりあるからです。「美しい誤解」ででもあれば幸いです。
「鈴」が「暗い力」ならば、日本人の心の中には輪廻≠烽れば因果律≠烽ると思います。
「暗い力」の発生地点を過去に求めるとすれば、流転の遠い始まりとなった、兄の死ではないか…と考えました。…どうやらこれでは国際性≠フコードにもひっかかるみたいですね。
盲目の少年との場面では、「鈴」は、話をスムーズにすすめてゆくための設定のひとつでしょう。
榮子がいつも「鈴」を身につけていることの提示にもなります。
「鈴」を身につけていることは、死んだ肉親たちのことを意識下でも想い続けていることの形象化≠ナあり音像化≠ナあると考えました(音像≠ニは、佐々木ドラマを評した鳥山拡氏の造語です)。
感性がいかんなく発揮されたモノが、無事にきちんと流通されていれば良いのですが、そういうことが通用しない場所も多いのは、実感された方も多いと思います(「感動した!」だけで通用するのは小泉純ちゃんだけだったりして…よけいな軽口ですね)。
理屈っぽく振舞うのは、自らの「知的な虚栄心」を満足させるためという場面ばかりではないんですよ。
「社会性」を強調するのは、やがて(佐々木作品に対して)来るであろう「非感性的」な「無理解の痛打」への防御のためです。
「時代性」を強調するのは、(佐々木作品を)現実の風土に根付かせてやるため、コスモポリタンの正体を押し隠すための擬態です。
無理して覚えた専門用語やカタカナ語を使ったり、アフガニスタンの見捨てられた人々までも引き合いに出したのは、誰かさんの「企画書」を通しやすくするための、あまり実効性のないパフォーマンスです。
11月25日が過ぎても、わたしの時計はきっと止まったままです。わたしは佐々木昭一郎氏にはカムバックしてもらいたいんです。東京でなくて海辺の地方都市でも、登場するのがケミカルヘアーの少年少女でもいいんです。
占星術ではなくて「エニアグラム」というのをご存知ですか。それによると、わたしは「飢えたる魂の者、美しいもの・良きものを貪って、なお満足しない者」だそうです単純に言えば貧乏性? なんか大変失礼してしまいました。お許しください。
響きあう・・・ 投稿者:おおにし 投稿日:11月 8日(木)10時33分23秒
“UNIVERSAL A”のこと、MARUさんのさまざまな指摘、・・・
ここで読める、あの作品に向かうさまざまなまなざし(&耳?)の存在自体にも、感動します。
>「DVD化も検討を始めている」そうですよ!
----まだまだこの国も捨てたもんじゃないですね。(笑い)
楽しみです。
キャッチ・ザ・ウィンド 投稿者:角田博英 投稿日:11月 8日(木)08時39分38秒
あおせさん。とうとう引き出すことに成功してきたみたいです。MARUさんの書き込みは永久保存版です。感激しました。
「音楽と神秘学、ピタゴラス」で検索してみてください。面白い説あり。
ちょっと久しぶりの書き込み 投稿者:リトルリバー 投稿日:11月 8日(木)01時58分02秒
この10日間ほど、パソコンのない環境に出かけていたので、このサイトを見られなかったのですが、その間に随分書き込みが増えていますね。
昨日、ローソンで25日のTAMAフォーラムのチケットを買いました。画面では「Respect佐々」しか出ないので、日付と会場を頼りに申し込んで、無事に買うことができました。Sold outだったらどうしようと心配してたのですが、まずは安心。
雑感 投稿者:MARU 投稿日:11月 8日(木)01時10分51秒
アルプは懐かしい雑誌です。辻まことの「過ぎ行くアダモ」かな。彫刻家のジャン・アルプに由来してると思ったときもあるけどアルプスのアルプでしょうね。
Aについて話題になってますが、A音の普遍性に加え、図像のAもちりばめられていますね。パースペクティブの線路、父の登った鉄塔。これらはAに見えます。
JANさんのご指摘のフックでの意識の連続ありますね。大川さんは「大きな声」を探していた。― 「大きな声」のオペラ歌手の歌う「インド」の歌。― 帰国する「インド人」メータさん。― 栄子の作る「カレー」…。兄と見た「学校」のピアノ。― ドイツ人の子供「ドイツ学園」(?)。― 「ジャーマン」シェパードに「赤い丸いもの」を。― 中学生に赤い丸い「リンゴ」。
主人公の名の表記が「榮子」とわかる場面の直前、つまり馬での漁の祖父似合う場面の漁の旗には「栄丸」とありました。これも隠しフックでしょうか。
ひとつナゾがあります。「見えない音を憎んだ兄」が爆音識別レコードを割る場面。兄がふるっているのは、なぜかチューニングハンマーなのです。普通のトンカチでないのは何故?記憶の風景では事実よりもチューニングハンマーが真実となっているということでしょうか?いやな音を破壊し、後に調律の道具として登場するハンマーの意味は何でしょう。
栄子の生年は、以前どなたかも異なった推定をされていましたが、JANさんの洞察は鋭いです。
感服です。1960年生れですね。ただ、おっしゃるとおり私もあまり重要な意味はないと思います。
佐々木作品は社会批判が目的ではないにしても、批評精神は鋭いと思います。ただ批評の射程は「戦後日本」とかいった特殊事情ではなく、「いつでもどこでも」ありえる事情についてだと思います。だから普遍的作品として国際的に受け入れられたのでしょう。
鈴の音の意味を象徴的に解釈されている方がいましたが、盲学校のテッチャンに栄子の来訪を知らせる鈴、「鈴をなくした。音叉を拾った。」の鈴、売られる家具から「手鏡」を荷台からぬきとり、その代わりに荷台に投げられた鈴の意味もその解釈に当てはまるのでしょうか?(鈴と音叉の関係に注目したいです。)そしてこの手鏡は母の形見なのでしょうか?「母、自分の鏡」というせりふもありました。あのときバイオリンケースも荷台にありました。後に道具箱として使われているバイオリンケースは同じもの(買い戻した?)なのでしょうか?それとも、のちに別に求めたものなのでしょうか?私は後者だと思います。するとなぜバイオリンケースが道具入れなのか特別な意味を持ちます。
細かいところにとらわれても、感動の本質に届きませんが、見れば見るほど謎は深まります。
色の持つ象徴性も気になります。圧倒的に赤。赤い丸いもの(これは父がおびえたものであり、犬と仲良くするためのもの)、リンゴ、赤いサラファン、I子の鳩時計を包むバンダナ、炎、栄子の衣装。しかし小学校にピアノを送ったことを兄に報告する場面から「青」が支配します。送り状、栄子の青い衣装、「今度はブルーのピアノを贈りたいな。」など。赤から青への転換は、栄子が幼少の罪の意識から解き放たれたことを象徴しているようです。
16年続けた「音の日記」をなくし、16年が甦りますが回想が現在に追い付く場面が音楽で示されています。日記をなくした、といっているところでの音楽がのちに再現される箇所があります。日記をなくした、とはどういうことなのでしょうか。
断片の解釈、意味を問うても「なぜ感動的なのか」の答えは引き出せないとわかっていながら、
どんどん気になっていきます。私を含め理屈っぽくなってしまう人がいますが、言葉にすればするほど本質がこぼれおちるような感じです。おおにしさんの「ことばにしにくい」、アルプさんの「言語化不可能」に同感。おおにしさんの、感性が作品に呼応して響いてきたような言葉はすてきです。
アクエリアスの時代… 投稿者:角田博英 投稿日:11月 8日(木)00時01分39秒
小説新潮「想い出TVジョン」2001年10月号掲載、しりあがり寿『夢の島少女』読みました!
大分照れながら「かけがえのない出会い」『夢の島少女』と、美大でのその「女のコ」との出会いを書いておられました。
アスペクトコミックスの『弥次喜多inDEEP』第2巻から第3巻にまたがっている、三拝山の「幸(さち)」の物語。チャンスがあったら目を通してください。
再放送や記録媒体が無かった時代に、テレビ放送の「一回性」が、イメージや情報に付与した「アウラ(オーラ)」。
クレバーな方の書くスマートな文章に、空気も読まず、わかりきっているのに、ダサーく、泥クサーく絡んで、我ながら恥ずかしいですが、これはもう個人的な決心の問題なので…。おなじアウラでも、質の違いがあるはずなのです。わたしも子供の頃にみた「少年ドラマ」の『風の又三郎』『夕映え作戦』『七瀬ふたたび』や『新・坊ちゃん』「江戸川乱歩シリーズ」の『月と手袋』(?)を覚えていますが、やはり「違うもの」だと思っています。
あるぷ様。例えば…佐々木昭一郎氏は「水瓶座(アクエリアス)」の人です。エレメントは水ではなくて「風」です。大勢の人と仕事をするのを好み、意見を重視する…文献を当たっている訳ではないので、これ以上は正確に書けません。たぶん意味は違っているはずですが、わたしにとっては、規範や手本ではなく「源泉」であり「オアシス」であり「問いかけ」です。
翻ってわたしは「山羊座」です。保守的で忠誠心が強く、一面、感受性に富むとあります(ありがたいかも)。角は富と豊穣のシンボル(嘘だね)、辛抱強く山に登る性格ともあります。陰鬱な「土星の星の下に」生まれた、哲学者たちの系譜だそうです(人にもよりますが虚栄心をくすぐりますね)。
「占星術」は、わたしにとっては、占い師にうらなってもらうものではありません。
人間群像に、古くから向けられた好奇心の成果、人間の多様性を描き出したカタログのようなものです。
ひとつひとつの性格の像を描く「言葉」が、なんとなく意味ありげで、稚気もあって、格調もあるようで、楽しいと感じます。
部分的に知識を得るのでは役にたたず、全体を知って、見通しをつけるためのものだと考えます。文学の一種ですね。
JANさん、おっしゃりたい事、わたしも痛いほどわかります。ただ余りにも語られる事が無かった一面を、バランスを壊してでも強調したかったのです。「普遍性」とは、抽象的な夢物語の事ではないと考えます。…うーん言葉が足りないな。JANさんの意見、もっとどーんと出してみてください。お願いします。
DVD化の検討を始めている! 投稿者:宮田虎彦 投稿日:11月 7日(水)21時20分07秒
これは、果たして周知のことかな。
アーカイブスのホームページ・広報担当のAさんからのご返事。
>「四季・ユートピアノ」に続く佐々木昭一郎演出作品について、
>年末年始に予定しています「アーカイブススペシャル」や
>今後の再放送を含めて、今のところ予定はありませんが、
>「夢の島少女」放送以来、反響を多数いただいておりますので、
>リクエスト等を参考にしながら放送計画を立てていきたいと思います。
>(また、佐々木昭一郎演出作品のDVD化について検討を始めていますが、
>いまのところ、その可能性や発売時期など、詳しいことは全く未定ですので、
>あくまでご参考としてお聞きいただければ幸いです。)
>TAMA映画フォーラムについてはこちらも情報をいただいており、注目しています。
>こうして、多くの方にご覧いただけるきっかけが増えていくことは、
>こちらとしてもとてもうれしいことだと思います。
>これからもどうぞよろしくお願いいたします。
「DVD化も検討を始めている」そうですよ!
皆さん!もうする事は、一つですよ。
「リクエスト攻め」です。
それから、多くの友人に映像を見せる事。
私は、テープを友達に渡しています。
「暇なときに見てくれ」って、そうすれば、いつか見てくれる。
「我が谷は緑なりき」も「かくも長き不在」もみんな1年以内に見てくれたよ。
UNIVERSAL A 投稿者:JAN 投稿日:11月 7日(水)12時45分25秒
おおにしさま
赤ちゃんのAの音については、佐々木氏はいろいろなところで話したり書いたりしています。
UNIVERSAL A、普遍的なA音として。あのドラマとは、実は関係深い話なのです。
時代性社会性を超越した普遍的な作品としてみたい、というおおにしさんの気持ちに
私も同感です。
ある特定の時代や場所に準拠して何かをかたるのであれば、
ドキュメンタリー的に時代、場所を特化するでしょう。
「ユートピアノ」にあるのは、第二次大戦ではなく「ある戦争」であり、
津軽ではなく「雪の北国」なのです。
ただし年代が特定できる箇所は一個所だけあります。
ベートーベン生誕210年の練習風景。
調べてみるとベートーベンは1770年生まれなので、1980年と特定はできます。
4歳で兄を亡くしたA子が16年(64の季節)を経て1980年にピアノを母校に贈るわけですので、
A子は1960年生まれということになりますね。ただこのことに本質的な意味はないと考えます。
現実に即して製作しながら、いかに普遍的なものに作り上げるかが佐々木氏の秘密なのでしょう。
一切の説明的背景を消去ってなお成立するものが普遍的価値を持つ作品だというようなことを
かつて佐々木氏は上映会で話していました。
見れば見るほど緻密に厳密に設計されていると気付きます。ただ、それについて個々指摘しても作品総体からの感動と離れてしまうようで、気付いたことの詳細をここに記すのには躊躇してしまいます。
一つだけあげると、冒頭のドイツ学園のあたりや、中盤のオペラ歌手やインド人のところなどの、調律に行く日常の場面の連続。フックのような、しりとりのような連続でなさています。
ストーリーに頼らずに作品の意識の連続性を保つための方法論なのでしょうか。
サントゥール 投稿者:RAB゛E 投稿日:11月 7日(水)12時28分07秒
インドの楽器のようですね。
Aの音 投稿者:おおにし 投稿日:11月 7日(水)11時53分52秒
ちょっと出来すぎた話なので、眉につばをつけて読んで欲しいのですが(笑い)
赤ちゃんがこの世に生まれでてきて、最初に泣く声の高さは、Aの音、
という話を聞いたことがあります。
----あのドラマとは、あまり関係ない話でした。
あるぷ様
「ファースト」の最後の場面に出てくる言葉だったのですか。
ありがとうございます。
あのドラマの印象は言葉にしにくいし、無理にする必要もないのでしょうが、
自分のなかの記憶に定着しておきたいその手がかりとして、
「四季・ユートピアノ」は、「去りゆく一切は比喩に過ぎない」の
“比喩”そのものなのかな、と、私なりに思ったりもしています。
角田様
「通天閣・熱き七人」、見てみたいです。
たしか、同じ週の木曜日の深夜に、再放送していたはず。
おあせ様
「川シリーズ」の再放送を見てみたい気持ちが、さらに高まりました。
DVD化、早くされるといいのですが。
ところで、80年代はじめにNHK京都放送局にて開催された「佐々木昭一郎作品」の上映会、
第1回めのほうだけなのですが、実は私も見に行ってます。
スタジオの寒さと、佐々木氏のワインレッドのようなジャケットの派手な(?)色が、
記憶に残っています。
さて、マーラーのCDでも買おう・・・
楽器は 投稿者:あおせ 投稿日:11月 7日(水)01時02分58秒
ギルパルスさま、楽器の件ですが、ガンテさまがまだいらっしゃらないので、私からちょいと。
おっしゃっている楽器って『川の流れはバイオリンの音』で、あれは、三人組のジプシーでしたっけ、ピアノとかチェンバロの先祖だったかと記憶していますが、真ん中で奏でられていた楽器、・・・を小さくしたような楽器でしたね。
そう、森美術館での朗読の後、中尾幸世さんがどなたかと話していらっしゃるのを聞くともなしに、耳をそばだて・・・、いえ、小耳に挟んだ話ではロバハウスでもとめられたとか、ロバハウスのサイトを覗くとプサルテリー、もしくはサントゥールというらしいですね。
おおにしさま、音叉がプリミティブな楽器であると・・・、これは、あぁそうだ、そうだよなと強く納得しました。楽器と捉えることでおっしゃるように、より深く『四季ユートピアノ』と川シリーズが一つに繋がっていくと私も思います。
お知らせいくつか。 投稿者:角田博英 投稿日:11月 6日(火)23時54分01秒
多摩シネマフォーラムのチラシ頂きました。シミシミのロゴがいいですね。瀬々敬久さんも言葉を寄せているとは。『雷魚』で外波山つながりだ。
今日の『プロジェクトX』「通天閣・熱き七人」ご覧になりましたか。カメラマンが葛城哲郎さんでした。最後になってこのことに気づいたのですが、主人公格の写真館の今の店主の方が、涙を浮かべつつ、床の書き物にシャッターを切っているその表情を撮影するあのアングルが、すぐれているのだろう、独特なんだろうと思います。古い写真スチールの構成や、ドラマ風な少年の後姿もありました。そして、きれいな笑顔がたくさんあった回でした。…これじゃ葛城さんばっかりほめ過ぎだな。ストーカーまがいかも。
昼休みに四谷の図書館にいって「小説新潮10月号」を探したのですが、誰かが読んでいて内容確認できませんでした。
しりあがり寿!『真夜中の弥次さん喜多さん』『弥次喜多・イン・ディープ』ですよ。そういえば「廃棄物の山の中の魔王と少女」というシチュエーションがありましたね。
永野のりこ?一般の新刊書店には完璧にありませんでした。成人むけなんですか?
古本、絶版本探しは、古書店サイト「スーパー源氏」を使ってみるのもいいですよ。残念ながら現状では佐々木昭一郎、宇都宮信一関係の出物はないようですが。
今日、会社で来年度の事業計画に取り掛かり始めました。チェッ、こんな先の見えない時期にどうすりゃいいんだよ。「ちょっぴり強気に」「しかし根拠を持って」とは上司の指示です。
あるぷ様。山口耀久氏の『北八ッ彷徨』復刊されましたね。平凡社です。紀伊国屋では結構はけているように見受けました。
こまぎれの書き込みばかりで失礼しております。私の「四季」の感想は、まず「言語化不可能」ではありますが、皆様のコメントを拝読しているうちに、部分的にまとまってきましたので、近いうちに書かせていただきます。
>おおにしさま
「去りゆく一切は比喩に過ぎない」
ゲーテ「ファウスト」の最後の場面で主人公が昇天する時、天使たちが合唱する言葉です。
手塚富雄訳では、こうなっています。
なべて移ろいゆくものは、比喩にほかならず。
足らわざることも、ここにて高き事実となりぬ。
名状しがたきもの、ここにて成し遂げられたり。
永遠の女性、われらを高みへ引きゆく。
(この合唱で幕となる)
私も「四季」に関しては、どちらかというと、時代背景との関連よりも、時代を超越した普遍性の観点から論じたい誘惑を感じています。
川は永遠に流れ…ですよね。
>角田さま
私のHN、確かに今はない山の雑誌からとりました。尾崎喜八、辻まこと、串田孫一などの方々が集っていた、浮世離れした本でした。
アルプを御存知の方にはほとんどお目にかかったことがないので、少々驚きました。
書きながら思いついたのですが、辻まことさんが長生きして佐々木作品に出演されたら、どんなにすばらしい作品になったか…
神秘主義との関連については、いろいろ微妙な問題もあるので、少し時間をとって考えてみたいですね。佐々木作品とエンデとの対比は、一度試みる価値があるのではないかと思っています。比べるとエンデはいささか理が勝っている印象はありますが。
定点観測の点。
風のなかにすっくと立った一本のりんごの木。
川の流れのなかに杭のように立った一本の音叉。
世界の音--流れてゆく時間--を聴くひと。
音叉は調律の水準器でもありますが、
同時にプリミティブな楽器であると思うと、
その意味では、A子は、世界の音を聴くだけの存在ではなく、
この世界に歌いかける--響きかける---存在でもありますね。
誰の言葉かもはっきり知らないのですが、
「去りゆく一切は比喩に過ぎない」という言葉を思い出しました。
つまるところ、あのドラマは、戦争とか、昔の日本とかでなくて、
去りゆく一切、生々流転のようなもの(ラストシーンの涙が意味するもの?)を描こうとしたのかな、
と稚拙に考えています。
ここから、「川三部作」の“川”につながってゆきますね。
まとまりのない書き込みで、失礼しました。
あおせ様、あるぷ様、ふくろう様、その後ちゃんと読みました。
ギルバルスさん、大事な話の腰を折ったような形になってしまい心苦しい様な…。どうかお続けください。
自分の文を落ち着いて読んでみると色々滑稽なミスがありますね。「ガストン・バシュラールの方法」であり「PTSD」ですよね。「PTSD」という言葉、美里さんより先に、5月に使った方が確かにいらっしいました。
細かい事をあんまり気にしない性格なもので、目を瞑ってください。
あるぷ様(山の文芸誌、又は彫刻家でありましたよね、この良いお名前は)「神秘主義」の話は厄介ですが避けられないですね。
しかし15歳の少年まで読んでいるのなら、「オカルト」や「カルト」というものがこの世にはあるんだよ、とか、それと「神秘主義」とはこう違うんだよ、ここが隣接しているんだよ、等等、書いておかなくちゃいけないのでは。我々はいい大人なんだから、「中尾幸世」の名にかけて(なんだそりゃ)予防線を張って用心をしておかないと。時間のあるときに、あるぷさんが叩き台にするために、私がお先棒を担いで、ささやかな体験でも書いておくようにしますよ。
…どんな方だかも分からないのに、ほんとに失礼なヤツですよね。お許しください。
あきら君へ。「村八分」や「外道」ですって。まずはチャック・ベリーやボー・ディドリーでしょうに。
それからエルビス・プレスリーのキャーキャーという女子の歓声の入ったライヴ音源を聞いて、ボブ・ディランの《アルバート・ホール1966年》の野次られながらのロック演奏を聞いてみてください。
そしてジミ・ヘンドリックスのヴィデオで、あの手の滑らかな動きを見てください。そして出来たらジョン・コルトレーンの《マイ・フェイバリット・シングズ》あたりを聞いてみてください。
それから聞きなおすと、また別の面白さがあるとおもうんですが…。これは微妙な意味をこめて言ってます。ひねくれた言い方しか出来ないオジサンもいるんです。
15歳じゃお金なんかないでしょ。自分の時と比べちゃいけないけれど、情報ばっかり与えて「駆立てる」のも全く良くないですよね。ペシペシ。なんといったらいいか、マニアが多くてお金ばっかりかかる世界という一面もあるので、気をつけてください。
意見がグラグラしてるみたいですが、本物ひとつを聞き狂うのもいいと思いますよ。ちなみに中尾さんは少女の頃ロッド・スチュワートを聞いておりました。
ふくろう様。貧困の時代といえば、永山則夫『無知の涙』というすごい例がありましたね。あまりの題材の重さに怖気を震ってしまいますが、それに、いつまでもこのことに串刺しされている訳にもゆきませんし…。
佐々木氏は、おそらく犯罪者に贈る言葉など持ち合わせていらっしゃらないでしょう。私は、それはそれでいいと思います。その後の年月は彼が忘れられていった年月でもある訳ですね。
しつこいヤツでしょう。うるさければ放っといてください。まだまだいろいろ試すがめつ書いて見たいことがあるのです。
さて、佐々木昭一郎という人は、言葉の自家増殖というか、言葉の遊びめいた論説を嫌う人でもありました(60年代全盛だった社会派ドラマ≠ノ辟易した結果なのか、当時の映画雑誌の「なんちゃってサヨク」の残党たちに絡まれたのか、それとも言葉の本来的な毒性を見抜いていたのか)。
だから、佐々木昭一郎論というのは、難問なのです。せいぜい痩せた言葉でない、ふっくらとした言葉で書きたいと、いろいろやってみたのですが…。納得ゆかないですね。
8月25日、いわき市の平教会で行われた朗読会に、中尾さんは特注したという琴を持参されました。朗読の間、実際使われることはなく、本人も朗読会終了後、使う機会を逸したと言っておりましたが、雑談の際に爪弾いてくれました。音は、木村弓のドイツの竪琴に近い感じ。琴の種類や誰が作製したかなど聴き取れませんでしたが、外観は、白木の感じで羽根ペンのようなもので弾いていました。大きさは、1000mm×400mmぐらいかな。弦は4本?
ガンテさん、もうちょっと詳しく聞かなかった?
角田さま、みなさま
ご無沙汰しております。
確かに京王線に限らず私鉄は慣れないといらいらさせられる事が多いですね。急行の待ち合わせとかなんとか長い事とまってたり、いきなりまわりの乗客がみんな降りちゃってあせったり・・
永山の駅は京王線と小田急線の改札が隣り合ってます。どちらも改札口を出たら左に行ってください。
西友やマックなどがあるグリナード永山というビルの横の階段を上がっていくと広場がありその先がベルブです。すぐ分かりますよ。徒歩2〜3分てところです。
関西方面から新幹線でいらっしゃるなら、新横浜→JR横浜線町田駅→小田急線新百合が丘駅→小田急多摩線→永山と来る方が早いです。(ご存知ですよね)
京王線は昨年の暮れから女性専用車両を設けたり、ドラマの撮影に協力的だったりと話題の多い鉄道ですよね。
>あきらさま
少年には冒険をして欲しいと思う反面、心配でもあります。どうか道中お気をつけて。
あおせさま。そしてまた各遠隔地から『リスペクト佐々木昭一郎』に出かける皆様。
路線検索で調べると、京王線の「京王永山駅」から徒歩で行くのが早いと出ます。小田急線でゆくと時間のロスがあるのかな。正直いって足を伸ばしたことはありません。
京王線は使い慣れていれば迷わないのですが、新宿駅から乗り換えるときもすっきりしませんし、京王線の乗り場自体が立体的になっていて、いやな感じなのです。そして「京王線」と「京王新線」とふたつの駅があったりするんです。
フラフラ乗ったはいいけれど、途中「笹塚」の駅で乗換えさせられたり、フラストレーションがたまる路線のような気がしました。
わたしは今では仕事に使うことは無くなりましたので、だいぶご無沙汰しています。きっと引っかかりそうな(時間を無駄にしそうな)感じです。でも相撲取りなんかが乗っていたり面白い電車ですよ。
新宿駅周辺で、よく人に道を尋ねられますが、大体傾向は決まっています。(以前中学生の女の子に、マイシティの中で京王新線への乗換えを尋ねられて、どう説明するか絶句した思い出があります。)
じっくり調べて、ゆったりした気持ちで前にすすむこと。わからなければ、制服を着たヤツを捕まえて、何度も聞いてください。遠慮は無用です。
ふくろうさま。木村弓さんのこと、書き込まれる方が出てきましたね。ゲルトナー・ライアーでしたっけ。『銀のしずく』には興味をそそれます。ただし中尾さんの竪琴はアイリッシュ・ハープだと書かれていたようでしたが。
これは悪口だと思われると心外なのですが、木村さんは話し方がおばちゃんみたいで親しみがもてました。ビートたけしの番組に出ていましたよね。あれは関東ローカルなのかな。
『夢の島…』が放送されたとき、会社の同僚の女性に感想を言われたのですが「作品はわからなかったけれど、あの人はすごく品がある人だ」というものでしたけどね。
>角田さま
中尾さんを追いかけてここへきたもので、佐々木氏については何も知りませんでした。このホームページにも多くが書かれているのでしょうが、消化していません。角田さんの、繋がりを持った知識の豊富さに圧倒されます。僕は、求めても消化しきれない気がして、たまたまぶつかったものだけに反応しているもので、浅さが恥ずかしいと感じます。
「>望みもしない高みにつれていかれた」60年代、80年代でも「>現実にある風景のはず」読み返して、深いなあ、と敬服。たしかに80年代、裸電球の記憶はともかく、マキストーブ、昔のままの木の引き戸の漁村の家は確かに(たぶん今でも)ありました。高いウニや鮭定置の漁業権を持った漁師は御殿を建てますが、そうでない漁師は漁業権を買うことも出来ず同じ状況に置かれるのでしょう。ただ60年代に淘汰された貧困、または選別された底辺(昔はみんなが底辺)、そのシステムが公平で正しかったかどうかは別として、今現在の日本の貧困がどういったものであるか、(つまり自分がこうした人々と同じ存在か、親しみを持つか、という点で。)はまだ解っていません。生活の面では底辺でなくとも貧しく生きて平気な層も。
>「中尾幸世神秘主義者説」・・・「竪琴や美術・工芸(角田さん)」「シュタイナー関連の活動家の拠点・・・志村さんについて染色を習われた(あるぷさん)」「佐々木作品に出演するという秘技的体験」
「竪琴」と言えば、今話題の「千と千尋の神隠し」のテーマ曲を歌っている方の楽器ですよね? シュタイナー教育の中で使われるものだとそのご本人が語っていました。シュタイナーの神秘主義が僕に理解できるとは思っていませんが、言葉で伝えられないものがこうした芸術活動を通して片鱗は広まっているのかな、と感じます。僕には「禅」のような不可解さですが。(あおせさん、森美術館、「禅の空間」と思ってしまいましたが)
>あおせさま 「怒りが見えないことが逆に怒りを表しているのかも」
なるほど、そうかも、と思いました。でも。
見ている方でさえ息苦しくやりどころのない切なさが溢れ返る「夢の島」。演じた側がその程度の感情でいられるわけがありません。本職の役者ならともかく、ましてやあの特異な作品で、17歳で。その後中尾さんを呪縛したかも知れないとさえ感じるのです。ある意味、佐々木氏がそんな中尾さんを「癒す」ために作ったのがユートピアノなのかな?とさえ考えてしまいます。「夢の島」撮影終了後、たった一人で号泣した中尾さん。再放送のとき、現在の中尾さんが声を詰まらせる場面があります。「昔の思い出に感極まって」をスタッフは狙っていたのでしょうが、それにしては目にきつい表情がありました。怒りとも不快感ともとれるような。泣き崩れるのを必死でこらえているのか?ともとれますが。博物館入りしたアナウンサーが、ありきたりの反応を狙ってつまらない質問をする、「そんなものではない!」と叫びたかったのではないか、少なくとも「思い出」なんかではない重い何かか、とも。中尾さんは未だ「夢の島」に生きてしまっているのか、原風景なのか。佐々木氏は「ユートピアノ」を中尾さんに見せるためだけに作ったのではないか?(むろん自分でもどうか、と思う極論です。)
>あきらさま
同じ油絵の教室に通っていた高校生が函館の美術館へ自転車で行ったことがあります。父親が破産して社長の御曹司から貧困の奈落へ、という80年代にしては劇的な人生の方でしたが。一人用テントや調理用ストーブなどを貸しましたが、無事生還しました。片道450キロぐらいだったと思います。今の時代がヒッチハイクにむくのかどうか解りませんが、途中の食事代を考えるとこれも一つの手であるかも。その旅行がユートピアノやリバーのように出会いの深さに満たされるものであることをお祈りします。
申し訳ありません、あるぷさま
ずっと前に戴いていた資料、やぁぁぁっと、アッブ致しました。遅ればせながらありがとうございます。是枝監督がらみの資料もTAMA映画祭に向けで、ちょうど嬉しい具合でございます。
そういえば、あおせは何年前でしょう、志村ふくみさんにエッセイの感想を書いた手紙を送ったことがあります。もちろんのこと、返事はありませんでしたが。
そう、角田さまにも・・・のを戴いていて、テキストにしなきゃなぁと思っていたのですが、そのままになっております。申し訳ありません。平身平頭です。
>角田さま
ご参考までに。
以前に志村ふくみさんの著書を読んだ記憶ですが、志村さんの御自宅は、関西方面のシュタイナー関係活動家の拠点となっている由です。10年ほど前でしたか、中尾さんが新聞に連載されたエッセイには、志村さんについて染色を習われた旨が書かれていて、私は深く納得しました。A子が音と向き合う姿勢、また中尾さんがA子という役と向き合う姿勢には、志村さんの素材や色と向かい合う姿勢と共通するものが感じられます。
ちなみに私は、中尾さん御自身が神秘主義に関して多くの知識をお持ちとは思いません。志村さん同様、体を使い、対象と、また自らと向き合う実践の中でおのずとあの声や眼差しを身にまとわれたのでしょう。「秘儀など知らずとも、成る者は成る」(岡野玲子「陰陽師」より、安倍晴明のセリフ)のですから。もっとも、現代において、佐々木作品に出演する以上の「秘儀」的体験(自己の内面的な何物かと、実人生とを高次元で調和・統合させる、というほどの意味で)がそうめったにあるとは思えませんが。私など、見るだけでかなり恩恵にあずかっています。
実風景は私もあの森美術館の風景だと思いますし、ついでに書くと、森美術館を「善の空間」と私は表現したくあります。さて、原風景はと考えると中尾幸世さんのエッセイだとかを読むと、ついつい、角田さんの破棄されたという「中尾幸世神秘主義者説」を支持したくなります、また、面白い本の書評もされていますしね。ただ、ここで角田さんが最後にあげておられた志村ふくみというフィルターを通して中尾幸世さんを観ると、また、違った風景が見えてくるような気がするのです。ひたすらに切なく深い蘇芳という赤色のフィルターを通すことで、いままで見えてこなかった中尾幸世さんの内在する風景が見えてくる気がするのです。(染め織りをしている友人に志村ふくみのエッセイ集などを貸したままになっているので至急回収して続きを展開する予定)。
ふくろうさま、実際、メディアの自主規制と申しますか、テロ報道をとっかかりに一段とうっとおしい状況を呈しているようですね。桐生悠々や正木ひろしに興味を抱いている私としては息苦しくして仕方がありません。そう、「四季・ユートピアノ」には怒りがないのかどうかは私にはわかりませんが、ただ怒りが見えてこないことが、逆に怒りを表しているのかもしれないなと、そんな風にも思います。なんだか、逆説的で私自身、あまり理解していませんけど。
あきらさま、自転車とは・・・。片道、およそ500キロくらいあるのでしょうか。あぁ、思い出しました、サイトの何処かにも書いていますが、私は谷山浩子のファンでして、彼女のコンサート、かなりの距離を自転車やバイクでツーリングしながら観に行かれるファンがいらっしゃったとか、とっ・・・、とにかく、がんばれ。
実風景… 投稿者:角田博英 投稿日:11月 3日(土)23時24分47秒
ふくろうさま。ガッチリ受け止めていただき感激です。
「原風景」と「実風景」ですね。付け合せとしては、ピンぼけなのですが、こんなことを考えました。
果たして佐々木昭一郎氏の「実風景」の元になっている原風景はどんなものだったのか。
『「創る」ということ』や「脚本と真実の周辺」、池田教諭のサイトの資料の中にも散見されますが、加賀乙彦氏の長編小説に扱われたような、一応の充実をみたと言われる、昭和10年代の東京の市民生活、毎日新聞のパリ駐在員だったお父さんのもたらしたヨーロッパの文物だったのでしょうか(日常生活で歌が出る家庭ですよ!)。
「疎開」時代に見聞した東北や和歌山の山村、山林地主たちの生活の様子でもあり、廃墟の首都に戻ってからの、労務者に混じっての日雇い仕事と映画館と英語の勉強の暮らしだったのでしょうか。(あと、謎の立教大学時代もあります。ラジオドラマでのあの活発なダイアローグや江戸っ子の啖呵めいた切り口上好みはどこから来ていることやら。)
「ああ麗しい距離(ディスタンス)、/つねに遠のいてゆく風景……/悲しみの彼方、母への、/捜り打つ夜半の最弱音(ピアニッシモ)。」 吉田一穂『母』
「くろい地下道へはいってゆくように/少年の日の挿話へはいってゆく…」 吉本隆明『少年期』より
「この世界のように古くからある 人間のからだの中を流れる血よりも古い いろんな河…/ぼくの心はそんな河のように底深くなった。」 L・ヒューズ《ニグロはいろんな河について語る》より
「海とはまさに自然の肺であり、世界の血液の小さな円である。」 イリヤ・クーチク《オード(第25スタンザ)》より
最初の三つまでは、佐々木氏愛唱の詩のはずです。ところであおせさん『川の流れはバイオリンの音』は必ず再放送されますが、その前に、レオナルド・ダ・ヴィンチが、地球上の水の動きについてどう書いていたか調べるつもりです。4番目はそれについて書かれた手がかりです。
中尾幸世さんの「実風景」あるいは原風景とはどんなものなのでしょうか。
東京郊外を描いたモダニストたち(例えば立軌会の人々)の絵画のような、まだ武蔵野の面影の色濃い風景だったのでしょうか(梅ヶ丘の牛飼い…なんて画題もありました)。
中尾さんは、もう中学生のころから演劇を志したり、竪琴や美術・工芸を手がけたり、
直後から、ヨーガや生活習慣をコントロールしはじめたりしていらっしゃるのでしょうから(単なる浮気症の訳ありません)、ご自分でも手を焼くような、いろいろ相反するものを内面にもった方なのだろうと推察します。内面の中に帰るべき世界が、というか、イデアの世界が、自分でも掴みきれない形で、そして現世では存続が難しい形で、あるのかも知れません。これは「榮子」のキャラクターにもなんとなく反映されています(いかがでしょうか、ギルバルスさんとお友達の方。「聖なる光はそれ自身不毛であるが、人生という濁った媒体を通し、様々に屈折するとき、ふいに閃き出る」ハンス・カロッサ…『一茎有情』の孫引きですが。
…そして愛子の台詞は、ポストスクリプトによると「また後でいっしょに聞きましょう」です)。
いやいや「中尾幸世神秘主義者説」これは、今では廃棄してしまった、私の考えでした。
あるいは色々な習い事や勉学の中で出会った人たち、修行者や旅する演奏家、工芸家の人たちの住む精神的なコミュニティー≠ェ「実風景」なのかも知れませんね。いまは(あの福島での多彩な)観客たちこそが、きっと中尾さんの「実風景」なのでしょう。
中尾さん、胸の中のすべてが合一するような世界を発見なさいましたか。
「ちいさな島でいることは すばらしい。/世界につながりながら/じぶんの世界をもち/かがやくあおい海に かこまれて。」 マクドナルド《ちいさな島》より
「でも あなたに とって/たいせつなのは/あなたが/あなたで/あること」 ブラウン《たいせつなこと》より
あと一つ、志村ふくみさん(日本の織姫)の文章を引用したいところですが、大して知識がありません。
チラシ欲しい方、メールください 投稿者:クロカワ 投稿日:11月 3日(土)17時02分37秒
急なお知らせで失礼いたします。映画祭TAMA CINEMA FORUMのチラシが刷り上りました。
地方でチラシが手に入らない!という方(地方でなくても結構です)、チケット買ったけど、場所がどこだかわからない、という方、ご住所教えていただければ、お送りしますので、クロカワあてになるべく今日中にメールください。月曜にまとめて発送しますので。
個人宛に住所を教えるのは不安、という方はTCFのホームページあてに「チラシ送ってください!」とメールくださっても構いませんが、そちらは対応に時間がかかるかもしれません。
もっと早くお知らせできればよかったのですが、すみません。
あおせさま、勝手にこの場を使わせていただいてスミマセンでした。
実風景としての60年代 角田博英さまへ 投稿者:ふくろう 投稿日:11月 2日(金)22時15分34秒
RES遅くなり失礼しました。ぼんやりと生きているもので、物事の捉え方はあくまでも感覚でしかないのが、お恥ずかしいのですけれども。お目に留めていただいて幸いです。
「実生活者」・辺見庸の言う「実時間」を真似て「実風景」という言葉を作りました。「原風景」というものが自分を形作るもとにはなっていて「帰る」ことはあっても、いつでも蘇って自分がその中で生きている感覚はないようですから。おそらくいつでも60年代に生きている感覚で見ている人々がいるのだと思います。戦争から15年ないし25年しかたっていない時代。あの廃墟から「繁栄」へ。70年から30年たった今、どれほどの変化があったでしょうか?全くない、といいたいほど。比べて終戦から70年までの変わり様、物質的にはむろん、人の「こころね」の変化。砂利道、裸電球、町工場。どこにもむき出しの生産の現場とまずいしいことが共通項であった時代。初めて電気の通った村、なんて報道もまだあったように記憶しますが。60年代、ラムネ・ところてん・粉末ジュースがコカコーラよりメジャーだった地方都市の子供です。(北海道はコカコーラの進出が一瞬遅く、コアップガラナが主流になるところでした)石炭は確かに馬車が街中を馬糞転がしながら運んでいました。
60年代(と声高に叫んでいなくても)の風景の中に生きているのが一連のドラマなのかも知れません。まだ人の心を失わない時代の。貧しさを責めてはいない。むしろ心の空虚さ(夢の島)・状況はどうあれ、すべてを受け入れ(ユートピアノ)つつ自分をたたせていく、その課程こそがテーマなのかな、と。
都市と地方のアンバランス、という見方もありますが、変化した日本、「アンバランスな都市」が地方に遅れて入り込み疲弊させていく様が60年代であったのかも。都市のアンバランスの拡大・飛散。農村は食料だけでなく人間も(労働力も新しい才能も健全な精神も)生産し都市に送り込んでいたのが60年代まで。それ以降は地方も疲弊し再生産の場ではなくなった。
メディアの自主規制、ますますひどいものがありますね。限りなく自由へ近づく、そんな流れかと思いきや、息苦しさは募るばかりです。別に社会を転覆させるわけじゃなし、なぜそうまで押し黙るか。黙らせられるか。
何で読んだか、子供の頃だったと思うけど。「今の子どもは大声で泣かない。小学生までもが膝を抱えてすすり泣く」60年代の終わりだったかと思う。時代の悲しみが身に染みついている。たぶんここが分かれ目、榊原事件までこの兆候に目を向ける人は居なかったのかも知れない。
「夢の島」のほうが新しい時代を描いたように感じます。時代の告発、とまではいかなくても、何かしらの怒りは感じます。「ユートピアノ」に怒りはないのでしょうね。あのあとどう時代が変わっても榮子は歩いていくのだと思います。兄との思い出は「原風景」、その後の積み重ねる音との日々はすべて「実風景」なのでしょう。
映画祭 投稿者:あきら 投稿日:11月 2日(金)22時06分49秒
大阪から多摩まで、自転車で何日くらいかかるのですか?チケットは何とか取れたけれど、お金がないから、どうにかしないと…。四季ユートピアの川沿いのアパートはいいなあ。
まてぃあさま、外道いいですね。
動的 投稿者:あおせ 投稿日:11月 2日(金)18時28分32秒
リンクは静的な繋がりではないかなと思うのです。と、いうことで、ハナワさま、ようこそ。
サイト同士、「すくぅらっぷ館」さんともリンクという形でお付き合いさせていただいているわけですが、リンクという繋がりは静的、あるいは固定的な繋がりで、動的、能動的という観点から見ると、ちょぃと寂しい。ですから、ハナワさまのようにそれぞれの掲示板を行き来してくださると、なんだかサイト同士も動的に繋がっているように思えて、私としては嬉しく思うのです。これからも、よろしく。
放送ライブラリーへは私も行きたいなと以前から思っているのですが、関西は京都、それも片田舎に住まう私としては、なかなかに遠い。
そうだ、放送ライブラリー絡みの話でリンクさせていただいている中尾会計事務所さんからの情報です。放送ライブラリーにオーディオ・ドラマ「都会の二つの顔」と「コメット・イケヤ」「おはようインディア」が所蔵されているとのこと。こちらも是非、聴いていただきたい作品です。
ところで、川シリーズは「アンダルシアの虹」が収録されているのですが、どうして「アンダルシアの虹」なんでしょうね。「川の流れはバイオリンの音」でもいいのに。やはり中庸を尊ぶ国の人としては、まっ、角が立たないように間を取らせていただいて川シリーズ2作目を・・・、なんてことなんでしょうか。このへん絡めてくたくたと「アンダルシアの虹」について書いてみたくもあります。
角田さん、是非、これからも展開、分析をお願いします。佐々木昭一郎作品、これを、もっとたくさんの人に知ってもらうには、また、受け入れてもらうには、角田さんのアプローチは必須だと思っています。
はじめまして 投稿者:ハナワ 投稿日:11月 2日(金)01時45分54秒
すくうらっぷ館経由で来ました。ハナワといいます。
新参ものの佐々木ファンの私にとりましては、『すくうらっぷ館』と、
こちらのサイトは、とっても充実していて、嬉しい限りです。
私も無事映画祭のチケットを入手出来ました。
いきなりこのような歴史的な?イベントに参加できて、本当に嬉しいです。
実は横浜市に、放送ライブラリーという、これまでTV局各局が放送してきた
番組を大量にストックしてある所があるんですが、一般の人も好きな番組を無料で観る事ができるんです。
下のリンクでホームページへ行って頂くとわかるんですが、番組検索もできます。
(例えば、『四季』『さすらい』で検索すると、出てきますよ)
先日早速『さすらい』を観てきました。去年の放送も途中からだったので、
とても良かったです。(オープニングと、エンディングクレジットが英文でした)
概にご存じかもしれませんが、ご参考までに。
虚妄の風景2。ふくろうさまへ。 投稿者:角田博英 投稿日:11月 2日(金)00時32分54秒
なんだか話のすすめ方がトロトロしてしまいそうで、まだろっこしいので、結論めいたものから書いてしまいます。
60年代という時代の真ん中にどっかり腰をすえていた貧困=Bこれがだんだん影をひそめて行きます。佐々木氏がずっと見つめていたエヴリディ・ピープル、実生活者たち≠焉A潮の高まりに飲まれて、望みもしない高みまで連れたいかれた、そんなイメージを持ちました。
基本的に、佐々木ドラマの撮影は、ドキュメンタリーと同じですから、現実にある景色のはずです。イランの田舎のような風景(…でしたよね、ちなさん)、裸電球のぶら下がった家、あれも間違いなく日本の風景だったのです。
例えば『さすらい』で葛城カメラマンが映し出した、香具師たち、安っぽいバーテンダーたち、駐留米軍基地の傍らのバー街、ああいった光景を現在のテレビカメラが映し出すことはないでしょう。知らないうちに、写していいものと悪いものを、(佐々木氏たち以外の)あの連中がつくりあげてしまったのような気がします。
『夢の島少女』の小夜子やケンを「薄汚い」とほざいた批評家(というか賞を仲間の誰に分配するか決めるヒト)たちも荷担して、こういう欺瞞を成り立たせてしまったのです。
1974年、だいたいこの頃が分水嶺だったのかも知れません。あの頃の佐々木ドラマの中でたびたび燃え上がった「炎」を思い起こして欲しいのです。見えない「敵」に放たれた憎悪の炎。
言いたいことは、現在までのメディアが伝えているものには、自主規制なり自己演出や錯覚が混じっており、現実の姿を伝えていないのではないか、ということです。おっかしいですね。共産主義の国なんかでは、去年の「モー娘。」のCDジャケット(♪人生って素晴らしい…ですか)でパロディにされていた「青空を指差しニッコリ」みたいな頭カラッポ青年少女のイメージがよくありますが、構造的には大して変わっていないということでしょうか。
仮に世代を5年から10年ごとに区切るとします。第二次世界大戦・太平洋戦争で一番「割を食った」のは、1915年から1920年前後生まれの人たちです。この世代の人たちは、ごっそり死んでいますからね。ちなみに戦争を指導したのは1900年から1910年前後生まれの人々の一部ですよね。
戦争の記憶に苦しむ榮子の父親を、仮に1920年生まれとします。1980年に22歳とすれば、榮子は1958年生まれ、父親38歳の時の娘です。当時の常識からすればかなりの晩婚になるかも知れません。
榮子の兄が火災で亡くなり、母が入水したのは1962年のことです。父親は「戦争後遺症(TPSD!)」で、十数年も苦しんでいます。
父親が亡くなったのは、1974年のことです。父親は五十代で亡くなったことになります。
高校を卒業して、転々して後、宮さんに弟子入りしたのは1978年、20歳の時のことです。
1980年のドラマに戦争のことが出てきたときに抵抗を感じたのは、私に現代史の基本的な知識と想像力がなかったせいです。木造の、引き戸のある、裸電球の家に違和感をもったのは、ひょっとしてピカピカ生活のホームドラマなんぞをみていて目がくらんでいたからかも。日本全体が都市化したと思い込んでいたのかも。
『書を捨てよ町に出よう(ゴー・トゥ・ザ・ストリート)』とか『オン・ザ・ロード(龍村仁オフィス)』とかカックイイ掛け声もいろいろありました。しかし、朝鮮戦争特需の頃まで、本当にストリートで一日の大半を過ごしていた少年ならば、現実の風景を見失うことはなかったのかも知れません。
投稿者:cozy 投稿日:11月 1日(木)22時04分05秒
四季・ユートピアノよかったですね。当時の空気のにおいまで感じられるような・・・。調律師の宮さんが突然姿を消したあたりでは、愛用のステッキやチャップリン、榮子さんへのかすかな想いなどが頭をよぎって、夜中号泣してしまいました。子供の頃では理解できなかったことが、積み重ねた年月とともに深く心にしみ込んでくるんですね。
今度はぜひ、川シリーズを観てみたいです。またアーカイブスにお願いのメールを出さなくては・・・。(笑い)
思いつき・ユートピアノ 投稿者:buki 投稿日:10月31日(水)18時33分54秒
A子:音叉 ならば
すべての金属は火の洗礼を受け誕生するのが必然。
戦火か、燃える学舎か、
「火をふたつ書きます」・・・・榮子
四季とは巡り巡るもの、ある意味相生相克する癒しの旅か
反響その1 投稿者:ギルバルス 投稿日:10月31日(水)14時25分45秒
1980年放映の暫く前、番組が制作された記事を新聞で読んだ記憶があります。「佐々木昭一郎」「四季・ユートピアノ」「映像詩」等という単語とともにあるワンシーンが写真入りで紹介されていました。なにか気になり、観なければという思いで観ました。受験を間近に控える当時高校三年生だった僕にとって、多分初めて「心の琴線」に触れる思いがした番組だったのです。
今回は、21年振りの再会となり感激一杯でまだ内容をうまく考察できていません。ただ、高校3年生時分の感慨をいまだ持ち得ていたことは、良かったと思っています。
今、作品の分析まではいかなくともより深く知るために、気になるシーンや台詞、背景、表情などの断片をつなぎ合わせて全体を考えようとしていました。そこに今日、友達からテレビを観た感想のメールが届きました。簡潔かつ的確、非常に納得させられた一文で、枝葉ばかりを捉えて考えようとしていた自分を反省してしまいました。参考まで、次に紹介します。
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テレビ見ました。
主役の中尾さん以外は皆素人を起用しているのでしょうか。演技力がどうのと言うより先に、全編がドキュメント風なところからそういう印象を持ちました。
音を通じて世界を認識したり自分や他人の人生の意味を捉えたりするというのは、別に新しい手法ではないけれど、そうする人物が音を操る音楽家でも音を受け取る聴衆でもなく、ピアノの調律師だという点が主人公のあり方を規定している、また、規制しているように感じました。彼女の名前がA子、つまり、音合わせの基準のA音、となっているところからすると、制作者もそれを意図していたのでしょう。
彼女は音の体系の秩序それ自体だから、つまり音の尺度のようなものだから、彼女自身は常に自己一体的でしかあり得ず、狂うことはもちろん、自分との間で深く調和することもできない。つまり彼女は幸せにも不幸にもなれない。汚れることも浄化されることもできない。
また、彼女の周囲で何が起こっても、そしてそれが彼女との関係において起こっても、彼女は決して巻き込まれることがない。いちばん分かりやすい例は、C音の音叉を持っていた人の死でしょう。CはAとの関係で存在し得るので、それとの正しい関係を外れると自分を失うこととなるが、そうなったからといってAの音は何も失うものがない。たしかあのとき死んだ女性のおばあさんが「A子さんは悲しまなくてもいいのです」とか言っていたと思います。
A子にできるのは、おじいさんに馬を買ってあげたり、小学校にピアノを運んだり、不均衡をあがない調和を回復することだけ。そのたびに不幸になったり幸せになったりするのは、その不均衡に苦しんでいたり、それが償われるのを身をもって体験したりする人、あるいは小学校の方で彼女の方ではない。
さて、ではどちらがユートピア(ノ)にいるのでしょうか? 幸せや不幸になれる人か、それとも、そうはなれないけれどそうさせてやれる人か? ピアノか音叉か?
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以上です。
最後にお尋ねします。駅でA子とI子が別れるとき、A子がI子に「聴いてもらいたい音がある」と言った後、I子が答えた台詞が聞き取れなかったのです。誰か教えてください。