伽藤田さまからいただいた文章です。伽藤田さま、ありがとうございます。


題名 名前 日付
ヴァイオリンの f は.....  伽藤田  2001年 1月21日(日)
ヴァイオリンのfはポー川の渦(?)でしたっけ、このフレーズが私がこの「微音空間」までたどりつくきっかけでした。自然をデフォルメしないでヴァイオリンに流れているfの模様と幸世的微音が私の体を流れ続け、やがて海外旅行と言うかたちで現実化します。でもこれは、川〜リバー〜作品の追体験だったようです。そしてこの一人旅は、いろんな国・ひと・風景と混ざり合い、私の背骨となっていきました。最初に訪れたのはネパール。ここでヒマラヤという圧倒的自然と、いろんな人々と出会うことになります。


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広がっていく空間  伽藤田  2001年1月21日(日)
 旅先で私は、目に飛び込んできたこと浮かんできたフレーズをメモし、時々一つの文として完成させたり、深夜のゲストハウスでカットアップに時間を費やします。幸世的微音がバックに流れていたからでしょうか、スケッチを完成させるにあたり音読の重要性に気付きます。詩の朗読というキーワードの先にアメリカのビート文学があり、私の空間はビート詩人達との出会いへと広がっていきました。それは時々重たいうねりだったり、淡々と人々の日常を観察するものだったり、感動を感動として素敵に伝えたり。 やがて、絶えず幸世的女の子との出会いを待っている自分がいることに気付きます。


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自分に囁きかける微音達 伽藤田 20011月22日(月)
 幸世的女の子の存在の意味って何なのでしょう、幸世的であることとは。大きく波打つこともないのに止めどもなく打ち寄せてはそっと引いていく幸世的微音。ものすごいエネルギーで私達を歓喜させる訳でもないのにいつの間にか癒されていくような幸世的空間。時代の中でいろんな表現が試みられてきたけれど、今自分に呟きかけるなら、それはある種のヒーリングヴォイス。優しい地球の囁きに耳を傾ける時。幸世的であることそれは、木々のざわめきに、水の音に、絶え間なく生れ落ちては還っていく生命に、耳を傾けること。「ソニョドーロ〜黄金の夢を〜」



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かすかに流れ続けるA子の断片 伽藤田 2001年1月26日(金)
 旅を終えた人達には、またとめどもない日常が待っています。そこには、何か不自由さがあったり、生活から逃れたい思いがあったり。そんな時、ふわっと風が吹き幸世的微音で満たされる瞬間が。まるで雲に隠れていた月が街の人達のそれぞれの生活を照らしはじめる様に。今でも変わることなく流れ続けるA子のささやきの断片が、日々のありふれた思いを瞬時にあの川のほとりに運んでくれる。そして、この瞬間にもあの川は流れ続けてくれている。



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共鳴しはじめた日常空間  伽藤田 2001年1月26日(金)
 オーディオドラマも〜川〜シリーズも、私には幸世的空間の中での出来事でした。やがて私は大人になり幸世的微音が聞こえなくなってしまいます。時々、出会った人・風景・それぞれの音を思い出しながら、ただ日常の中で暮らしていました。そんな日常が私を一人の電脳空間へと誘ってくれ、私はあおせさんの微音空間へと吸い込まれていきます。あおせさんは私に空間を共有する喜びを与えてくれました。幸世的微音がそうしてくれた様に。



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再び、〜川〜へ 伽藤田 2001年2月 5日(月)
 幸世的であることから大人になるにつれ、私は詩文をつくるにもテクニックを使うようになります。難しい漢字を使ったり、必要ない表現をしたり。分かりづらい例えをしたり、カタカナを乱用したり。私は、何か大切なものを失ってしまった気がしました、他人の評価を欲するあまりに。 10代だった私は、「川の流れは...」を見てなぜか「キラキラ光る小川に金色の魚が住んでいて、のぞき込むと喜んで飛び跳ねてくれる」こんな映像を想像します。こんなシーンなかったはずなのに。今、大人になった私にこんな映像を創りだすことができるでしょうか。「創るということ」「伝えるということ」とは、何なのでしょう?そういえば、〜川〜シリーズの字幕も語りも、「人・川・鳥...」難しい漢字もなく、やさしく流れています。私は、また川へ戻ろうと思います。