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thought

幸世的空間考

サイト名『微音空間』由来

さて中尾幸世のアン・オフィシャルサイトを立ち上げようと考えたとき、どういうサイト名が適切だろうと悩みました。

最初、試作の段階では「静寂空間」という名前で立ち上げていました。

ですから「空間」というのだけは初めから決めていたのですが、これは空間を媒体として見、なんらかの感動を伝える媒体、空気が音を伝える媒体であるように、感動を伝える媒体として「空間」という表現にこだわったのでした。

「微音」とは中尾幸世の声をイメージしています。中尾幸世の声は決して大きくありません。また、特に演技をしようとしていないようにも思います。囁くように呟くようにさりげない声です。

それでいて、聴き手はその言葉のひびきに酔いしれて行きます。

このサイトが中尾幸世の言葉のひびきを少しでも伝えることが出来ればという願いを込めて『微音空間』と名付けました。(旧管理人 あおせ)

あおせ(旧管理人)の中尾幸世観

このサイトにはあまり私自身の文章を載せていません。

これは特に大きな理由かあるわけでなく、いえ、理由として文章が下手だという揺るぎない事実はあるのですが、私あおせの発するメッセージめいたものがサイトをご覧いただく方に中尾幸世に対して偏見を与えてしまわないかと不安を感じたためです、もっとも、サイトを作るという作業をし、それをインターネット上に載せているわけですから矛盾しているのですけど・・・。

とりあえずはこの「幸世的空間考」に私の文章をまとめて載せるつもりでいます。

さて長い前置きになってしまいましたが、私の中尾幸世との出会いは『川の流れはバイオリンの音』からになります。もちろん、出会いといっても私からの片方向な出会いです。

新聞のテレビ欄にあったNHK特集『川の流れはバイオリンの音』、

なんか魅力的な題だなと晩ご飯を食べながらドラマを見たのが始まりでした。具体的な感想は別に書くと致しまして、中尾幸世(A子)に対して最初に感じたのは妖精のような不思議さと強さでした。

これは多分に中尾幸世の声とその眼差しによるものかもしれません。そして人は自分にないものに憧れると申しますが、私は中尾幸世に自然体を見ました。

あまりにも当たり前の自然体でした。あくまでも普通の人です。しかし、この普通ということが不思議であり、憧れであり、魅力であったのです。

このドラマの世界は、あまりにも普通だけど、私たちの送っている日常ではない、私たちの通常ではない世界が広がっており、中尾幸世がその中で自然体で生きている。

視点を変えると、私たちが日常様々の雑事の中で如何に普通でない、ゆがんだ生活を送っているか。それが見えてきたのです。私たちが時代とともに選択し得なかった世界に中尾幸世が自然体にて矛盾なく存在している。私にとって中尾幸世は選択し得なかった世界の象徴でもあるわけです。

実物の中尾幸世に遭遇したのは、テレビというブラウン管を通さずに直接見たのは、ピッコロヒューメ主催の佐々木昭一郎作品集上映会でした。

上映の後、中尾幸世を囲んでの座談会がありました。私は最前列に座りどきどきしながら中尾幸世を見ていました。座談会の中で中尾幸世の視線がレーザ光線のように思えたことを、いまでもはっきりと覚えています。

質問者が話している間、中尾幸世はほとんど瞬きをせずに質問者を見つめています。その視線は鋭く静かでした。

レーザ光線は光が分散しない、ですから遠くまで届きます。同じように中尾幸世の視線は私たち質問者の心の奥底まで届く、そんなふうに思えて仕方がありませんでした。

初めて中尾幸世のオーディオ・ドラマを聴いたのは『ひろば・まぼろし』でした。その後、『DQ』『天の記憶』など中尾幸世の出演するオーディオ・ドラマを聴きました。私はオーディオ・ドラマが中尾幸世に与えた影響はかなり大きいと捉えています。特に演出家角岡正美氏のドラマは役者に演技としての、普通の話し方を要求しているように思えます。オーディオ・ドラマにつきましては私、かなりこだわりを持っていますので、また、別の文章にてくどくど書いていきたいと思います。

朗読、そして朗読会という形でのコラボレーションにて、中尾幸世は言葉の持つ響きを探求しています。「目は口ほどに・・・」と申しますが、中尾幸世の眼差しと言葉の響き、これらを思うと、現在の彼女の朗読活動も『夢の島少女』より連綿と続く川の流れの中にあるのかも知れません。

個々の作品についてあおせの思いますことなど

テレビドラマ 『アンダルシアの虹・川(リバー)・スペイン編』

「アンダルシアの虹・川(リバー)・スペイン編」

(制作NHK、 1982夏撮影、フィルム作品(国内版 80分 国際版 85分)放送: NHK総合テレビ1983.3.19 (土)21:25〜22:45

他の作品もそうなのですが、随分と不思議なドラマだと思うのです。ある意味、かなり幻想的なドラマなのかも知れません。

そして昨今の流行りのドラマのようにサスペンス仕立てでもなければ、殺人事件が起こるわけでもない、おおよそ、劇的という表現からは、かけ離れたドラマなのですが、それでは退屈かというと決してそんなことはない。

観る人を引きつける、もう一度、観たい思わせる、そんな何かがある。

観ているとなんだか優しい気持ちになってくる、疲れが消えていく・・・

私はその何かをあえて表現するなら、表現することで不正確になることを覚悟の上で、それは「救い」だと思うのです。

高度成長を経て、経済性を重視してきたあまり、無くしてしまったものがこのドラマの中には豊かにあふれている。

日常を描いたドラマが不思議と思うのも、それは私たちのひょっとしたら選択できたかも知れないけれど、選択しなかった、私たちにとっては普通でない日常、それゆえに不思議と思うのかも知れません。

旅を続けながら音を探し続ける栄子(A子)、彼女が旅の中で、出会っていく人達の優しさ。

(作品の冒頭、中尾幸世の歌声とともにテロップが現れます。)

         地球の片隅で、川のほとりで

         今日も静かに暮らしている人達がいます

         この作品はスペインのアンダルシア地方のあるジプシーの家族と

         主人公栄子の交流を描いた物語です。

(ロドリーゴの『ある貴紳のための幻想曲』が流れ出します)

(栄子の語り)

        船に乗った、ジブラルタルを渡った

        アンダルシアに着いた、アンダルシア、スペインの南

        ピアノを調律しながら川を探した。

        グァダルキヴィル川、アンダルシアの父なる川

        ジプシーにの家族に会いたい

        いい音を聴きたい

        カミノブランコ

        白い道

        カーサブランカ

        白い家

        ブランコ、ブランカ

        白

        アンダルシアの色と音

        音を聴きたい

(白い井戸の反響音)

(鍛冶屋のペペの弾き語り)

        ぼくはジプシーの鍛冶屋 川の音をきいて育った

        ふいごトンカチの音はいつも答える−

        人生はめぐり会い

(栄子と学校が嫌いなマノリン)

マノリン   数学がいやなんだよ

       クラスに数学の名人がいるんだ

       えらいと思う?

栄子     どうかな

マノリン   顔を見るのもいやなんだ

栄子     1+1=1 わかる?

マノリン   え、1+1=2だよ

(栄子の微笑)

マノリン  1+1=1?なんのことだ?・・・

      1+1=1?そんなはずないな・・・

マヌエル  いい考え方だよ、教えてやってくれ

(栄子語り)

      シエスタ、長い長い昼寝の時間

      マノリンが答えを出した

      1+1=1

      手を取りあうこと

      マヌエルのお姉さん、カルメン。旅から帰った彼女。

      長女のピーリーから手紙が届いた。

     「弟と妹たちをよろしくね

      体が音になりきるまで踊っています。

      いつか観に来てね

      A子へ  ピーリー」

(ギター職人 アルフォンソにギターの作り方を教わった栄子)

アルフォンソ 世界中をさすらった

       20代はブラジル

       三年前ここに来て働きとおし

       はじめから終りまで苦労ばかり・・・

       手  手  手       50年働きつづけて私はつかれた・・・

       気力、心の落ち着く長い長い時間・・・

       あなたに教えるのが楽しかった楽しかった

栄子    ・・・ありがとうございました・・・

(置き手紙、栄子の語り)

      「A子、私たちは旅に出ます

       旅は私たちの運命だから

       楽器を置いてゆきます

       困ったときに売りなさい

       鳥たちを川に帰してやってください マヌエル」

・・・私は行ってしまうだろう 鳥たちは残るだろう 歌いながら・・・

・・・私は行ってしまうだろう 鳥たちは残るだろう 歌いながら・・・

テレビドラマ 『川の流れはバイオリンの音』

オーディオ・ドラマ 『白の森不思議』

色彩の豊かなオーディオ・ドラマでした。

白の森と呼ばれる村がダムの底に沈んでいる。

個人参加可のツアーバス。ダムを通るルートの観光バスに偶然乗り合わせた白の森出身の女達。

村はもう無いけれど、望郷の念に駆られ、ツアーに参加したのだ。

女達が互いに白の森での奇妙な経験を語っていく。そして、語る内にバスは白の森へと・・・オーディオ・ドラマの特性をうまく理解している作品でした。

色彩や風景を言葉で表現する技術、どの登場人物が話しているのかをはっきりさせる台詞、バスという閉鎖空間。聞いた当時、上手く作ってあるなと感心しておりました。

また、花橘のかんむりつけて、お嫁さんが通るよぉという男の語りは絶品でした。

さて、中尾さんは白の森出身の女性の一人として参加しています。興味深いのは中尾さんの声が入ることで、すっとドラマが異空間へ入り込んで行くとでも申しましょうか。

背中のこぶに頭を埋めた男、座敷わらし、泉鏡花ばりの風景に、ドラマを聴く者がなんの抵抗もなくすっと入り込んでいくことが出来る、そんな異空間へと聴く者を誘う不思議な声でした。

オーディオ・ドラマ 『DQ』

以前、機会があり『DQ』を書いた高岸さんと少しだけ話をしたことがあります。

その時に、高岸さんも中尾幸世のファンであり、『DQ』は彼女を意識して書いたのだと話してくれました。

それを聞いてなるほどなと納得しました、『DQ』の少女はまさに中尾幸世さんのはまり役だなと最初に聞いたときから思っていたのです。

『DQ』、ダイヤルQ2が始まりだした頃、電話代で破産するという、それまでは考えられなかったような事件が頻発しました。

あらすじ

失踪した兄を捜す犬川弟、その兄の足跡をたどっていく中でダイヤルQ2、「月夜のコミュニケーション・ライン」・竜と狩人の話をする少女、六月さんと母親に甘える赤子のように集う男達に出会う。

一体、兄は何処へ消えてしまったのか、犬川弟は男達と接触し、兄と同じ感情を、犬川兄と同じ感情を持つことで兄を追跡することが出来ると男の一人、キドに教えられる。・・・彼は電話回線に住み着いている・・・

中尾幸世さんの演ずる六月さん、不思議な少女でした。六月さんという少女。この少女は本当に実在しているのが、声だけの存在ではないのか、そんなふうに思わせる中尾幸世さんの声でした。

流れるフォルクローレの音楽と言葉が不思議なほど響き合うドラマでした。

コラボレーション 『ゆく夏の調べ』』

コラボレーション  「ゆく夏の調べ」の感想らしきものをくたくたと・・・

感想を書くのは難しい、つまりは、感動というものを文章化するのは難しいということなのだけれど。

コラボレーションの後、神父さんと少しお話しさせていただいた。前日の朗読会、聖母カトリック平教会の神父さんである。会話の中で中尾幸世さんを初めて知ったのは・・・、どういうところがいいの・・・、という難問をいただいてしまい、聴かないでくれよ、そういう難しいことはと思いつつ、その問いに対して答えて、・・・答えるほどに、自分の返答が陳腐なものに化していってしまう。それが言葉を発するごとに強く意識され、ついには言葉では表現できません、と答えてしまった。どうやら、その神父さんは私の言葉では表現できないという、その言葉を待っていたらしく・・・柔らかく頷かれたわけで・・・、私自身もなんだか半面嬉しいような苦笑いを浮かべていた。さて、これで感想を終えてしまったのでは、ファンとしての面目が立ちません。

つたない文章ながらも、さも、わかったような顔をし、なんとか感動を伝えなければ・・・

一時期、朗読会の副題に「あやなすひびき」と付けられていたことがあります。うまい題だなと思っていました。といいますのも中尾幸世さんの朗読は、ある種の音楽、まさしく「ひびき」を読むものだと思うからです。「あ」なら「あ」という音が持つ固有の響き、「い」なら「い」という音が持つ固有の響きを夾雑物なく響かせる、これが中尾幸世さんの朗読の特徴の一つではないかなと思うのです。決して、音程を付けて歌うのではない、でも、響きが連なり変化していく様は、人の声が生み出す歌ではない音楽ではないかと思うのです。それは語りかける朗読者の思いを言葉の意味として伝えようとするだけではなく、連綿と続く響きとして、その言葉の持つ「思い」を伝えようとしているのではないかと思うのです。つまり朗読を通して中尾幸世さんが伝えるメッセージ、あるいは感動と言い換えてもいいと思うのだけれど、それを言葉として表現し、伝えようとするのではなく、音の響きとして伝えようとしているのではないか、だから、そのメッセージを受け取る側は頭でその言葉を解釈し、うちに感動を生み出すのではなく、言葉を純粋に音の響きとして思考を経由せず、そのまま、体全体で受け入れることができるのではないのかなと思うのです。表現を変えれば朗読という言葉に誘引され、聴く者の内側に感動が生まれるというよりも、音のひびきとして、中尾幸世さんの抱く感動がそのまま体を、五官を通して伝わってくるのではないかなと思うのです。

そして今回もそうだけれど、中尾幸世さんは朗読会と表現せず、コラボレーションと表現していました。ピアノにハーモニカ、その他、こまごまとした楽器群。幾種類もの響きがお互いに協調しあう、互いに個性を主張しながらも、同時に互いがその存在を認めあっている。強いて表現するなら「共生」という言葉が適切かも知れません。でも、これは決して、お互いが助け合っているのでもなければ、補完し合っているのでもありません、それぞれがそれぞれとして個性を主張しながら、同時にうまく一つになっている状態です。補完、つまりはお互い足りない部分を補い合うようでは、感動をストレートに送り出すほどの「ひびき」は生まれないと思うのです。

〜俳句と音楽〜Haiku Pieceより

俳句をあのように表現するのは驚きました。どう驚いたのか、うまく表現できませんが、ふと、何かに似ていると思い出したのがししおどしです。和風庭園などでよくあるやつ。竹で作ったシーソーのようなもので、水力でかーんと突き抜けるような響きをもたらすやつ。まさしくそれに似ています。

ピアノが静寂を表現する。決して、ピアニシモではないのだけれど、どちらかといえば激しいくらいなのですが、不思議に静寂を感じるピアノのひびきです。この静寂を一瞬、突き抜けるように中尾幸世さんの響きが生まれる。そして、この響きは刹那、静寂な空間に波紋を生み、そして消えていく。刹那に生まれ消えていく、鋭さがありました。

「ぼく逃げちゃうよ」「小さな島」

これは一片のオーディオ・ドラマを聴いているようでした。以前、中尾幸世さんが出演したオーディオ・ドラマ「赤糸で縫い綴じられた物語」、オーディオ・ドラマファンで知らない者はまずいないという秀作だと思っているのは、多分、私以外にも多いでしょうけど、この朗読は、そのまま、「赤糸・・・」のようなオーディオ・ドラマとしても、即、成り立つのじゃないかと思っておりました。

木の枝を揺らして風の吹くさまを表現し、波の音は、あれはなんていう楽器なんでしょう、大きな竹筒に多分、小石か小豆辺りが入っているのでしょうけど、揺らすと波の音がする楽器、私は楽器の知識が寂しいので、名前は知りませんが、効果音を生み出す小さな楽器達。観ているととても楽しげで、私自身も楽器の一つも奏でることが出来れば参加したいなぁと観ておりました。そう、これは本当に中尾幸世さんや演者が楽しそうで、それがとてもうらやましく素敵でした。(ただ「ぼく逃げちゃうよ」の母親の愛情にちょっとびびっていたけれど・・・、ま、それもよしということで)

中尾幸世さんの朗読を、さて、もうどれほど聴いてきたのか、

いつか、中尾幸世さんの朗読は、一見癒しっぽいのだけれど、いえいえ、実際はかなり攻撃的な朗読だと思うんですよという命題でつらつらと書くか議論してみたい・・・、いえ、議論するほどの思考力は私にはないけれど・・・

微音空間とは特に関係のない話をくたくたと

あれは去年、そう2000年の出来事でした、とある日曜日の夕方・・・

あれは去年、そう記念すべき2000年の出来事、ある日曜日の夕方のことにございます。

私はとある地方都市にて習い事をしているのですが、その仲間達と喫茶店、いえ、小気味よいカクテルなんぞも置いてありましたところを考えますと、おしゃれなショットバーという類のものかも知れません。70歳の女性を先頭に30代、20代、10代後半・・・、10人近くがどやどやと薄汚れた身なりのまま、何のためらいもなく入り込み、土に汚れたズボンのお尻をものともせず、テーブルにつき、メニューを奪い合いながらわいわいと喧しく騒いでいた時のことにございます。

いらっしゃいませ、少々、おびえたかのように、いえ、そのようなことはないと確信しておりますが、女の子、注文を取りにやってきたのでございます。

一瞬、そう、何気なしに彼女の顔に私の視線が届いたその瞬間、私は驚きのあまり息が出来ませんでした。女の子、中尾幸世さんにそっくり・・・。

あたかも『川の流れはバイオリンの音』から抜け出したかのようでございます。

実は私、すっかりばてておりましてテーブルについても、くたぁぁーっとだらしなくしていたのですが、しゃきぃぃんと一変。

甲斐甲斐しくも注文をとりまとめ、注文を繰り返す彼女にうんうんと優しく頷き、うん、それでいいよと優しく声をかける。後はもう言うまでもありません。

彼女のことが気になり、仲間内の話にも、「ん・・・」、「あぁ」、「ふーうん」と気のない返事だけ。実際、今でもどんな話で盛り上がっていたのか全く見当がつきません。

あぁ、しかししかし、意気地のない私でございます。食事と歓談の後、レジにて割り勘にて支払いを済ませ、何事もなく店を後にしてしまったのでございます。

その後、あの店には一度も行っておりません、ここ一番、意気地のない私でございます・・・。

ダビングにつきましてのなんら発展性のない私の愚痴でございます

・ビデオのダビングについて考えますこと

つくづく思いますのは、世の中、なかなか思うようにはならないなぁということでして・・・

「川の流れはバイオリンの音」にしても「春・音の光」にしましても、レンタルビデオ店に行っても置いてはいないし、ビデオを買おうにも何処にも売っていない。といって煩雑に再放送されるわけではなし・・・

こういった状況下において、ドラマを観るにはNHKに再放送をして欲しいと要望していくのが、まっ、順当な方法なのでしょうけど、不特定な可能性に悠然と構えているほど、私も人間できていないわけでして。

と、いうことで・・・。手っ取り早い方法としては、やはりビデオを持っている人にダビングしてもらうのが一番、ただ・・・。なんといっても、この場合、著作権の問題があるのは否めません。また、この問題を適切に解決する方法はないだろうなと思うのです。

基本的な私の立ち位置としましては、私は中尾幸世さんのファンの一人として、出来るだけたくさんの人達と感動を共有し合いたいと思っています。そして、中尾幸世という存在を再認識して欲しい、そんな思いで「微音空間」を立ち上げました。現時点ではおよそ三分の二の画像をアップしました。そしてサイトのフレーム化中です。でも、たとえ画像をすべてアップしても、フレーム化し、サイト内を移動しやすくしても、「微音空間」の完成は望めないことを最近実感しているのです。

中尾幸世さんを語るにはやはりドラマの映像をサイトに内包しなければ成り立たない、このままではこのサイトを見てくださった方たちに、ドラマそのものを観ることが出来ないと言うジレンマに苦しめさせてしまうだけではないのか、そう思えて仕方がないのです。

プロパイダーの容量的にはドラマの一部だけでもmpeg映像にしアップすることも可能ですが、これこそ大変な問題になりかねません。

そんなおりに、微音作成日記にも参加してくださっているブルーストさまなど、複数の方たちで、ビデオのダビングやレンタルなどのサービスができないものかどうか、というお申し出がありました。

私の個人的な考えとしましては、もしもこういったサービスが成り立つことが出来たなら、方肺だった「微音空間」が完成するのではないか、充分に感動を共有し合うことができるのではないかと考えるわけです。もっとも始めに申しましたように著作権の問題があり、これを大々的に出来ようはずもありません。また、私もお聞きした段階では、こういったサービスができたら楽しいでしょうねというくらいの話でしたので、実際に現時点においてこういったサービスが稼働しているのか、楽しいだろうなと言う希望的観測で既に終わってしまっているのか、それはわかりません。

ただ、なんらかの形で存分に気兼ねなく、ドラマを観る環境が整えば、こんな素敵なことはないと強く思うのです。

以上、なんら意欲的な提案の一つもない、ちょぃと長めの私の愚痴でした。ごめんなさい。 -2001.3.18-